先日、会社の指示で東京都心までセミナーに行きました。一般会社員向けの一般教養的なテーマでした。
セミナーはつつがなく進み、最後のまとめの途中で、講師の方がおっしゃいました。
「できれば、今日やった内容を自社の方に説明してみてください。身についたかどうかを確認するのにはやっぱりひとに教えるのが一番ですからね」
……この、「理解の証明には教えてみろ」説、どなたでも何度か耳にしたり、あるいはご自分でなんとなく使われたことがあるかもしれません。個人的に、いちばん古い記憶では、十代のころ読んだマンガの中にまでさかのぼります。当然、それより前にも使われつづけてきたであろうし、これから以後も言われつづけることが想像できるような、「キングオブ一般論」のひとつといえるでしょう。
「理解の証明には教えてみろ」説の根拠は、なんといっても「アウトプットする行為」と「他者の存在」というふたつのハードルです。これが、自分の中にある「ぜんぜんわかってますがな~」というもにょもにょしたやつに対して、そのままにさせない強制力をもつわけです。
これがあまりにも直感的にしっくりくるので、ひとはつい、「ほんとうに理解したかどうか確認するためには云々」と口走ってしまうのです。
しかし、「理解の証明には教えてみろ」説には明確な弱点があり、それもまた、「アウトプットする行為」と「他者の存在」なのです。
アウトプットする行為とは、つまり表現です。あるスキルを証明するのに、表現力という別のスキルを使って伝達しなければ、本題の良し悪しは伝えることができません。
他者の存在もまた、同様です。
あるまとまった情報について、自分のいわんとすることをイメージと寸分たがわず伝達することなどできはしません。受け手の立場になり、情報の本質を取りこぼさず、いかにわかりやすく伝えていくか……って、完全にコミュニケーションスキルの問題になるのであります。
つまるところ、第三者を介して理解の証明をしようとすると、第三者が主体になってしまうのですよね。
では結論、何をすれば理解の証明になるのか……といえば、それは難しくありません。
「復習」です。
いやもう、これ以上ないほどつまらないですけど。