その155 ハンコの挨拶

以前、若いサラリーマンがネットで「職場で人に挨拶をしない自由もあるのではないか」と発言して、炎上したことがありました。

どうやら、その人の意見は、「いろんな価値観もあり、状況的に不要な場合もあるので、そういうときにはいらないという若者が増えたら、いずれ世の中も変わるかもしれない」という趣旨だったそうです。

しかし、長い話は聞かれない時代ですので、「挨拶をしない自由なんて、社会的にありえない」と大いに叩かれた、ということでした。

少し興味深いのは、このサラリーマンの発言は個人のSNSではなく、「挨拶の強要の是非」をテーマにした、ネットメディアのインタビューの中での出来事だったそうです。
つまり、「挨拶がウザい、したくないときもあるよね」という前提は、メディアの企画になる程度には存在しているといえそうなのです。

たしかに、市井に生活をしていますと、集合住宅のおたがい顔も知らない同階の住人との二人きりのエレベーターであるとか、挨拶をするうえでちょっとした気まずさを含む場面というのはちょこちょこあるものです。
生きるか死ぬか、ビジネスの最前線で日々しのぎを削っているような人にとっては理解できないようなしょうもないナイーブさですが、そういった感性が一蹴されることもなく相手にしてもらえるのも、進歩的で優しき現代社会の一側面なのでしょう。

しかし、挨拶とは簡単なようでいて、おそらく奥の深い所作であります。

人間関係の達人や対人スキルの高さが求められる世界にいる人は、そもそも多種多様な挨拶の引き出しを持っているように思います。初対面から馴染みのある人、利害があればなおのこと、自分の望むコミュニケーションを導くために最適な挨拶を自然に繰り出すことができるのに違いありません。

そういったレベルにはほど遠い、われわれのような一般層では、挨拶はほとんど持ち歩いているハンコのようなものです。同じハンコを同じ濃さで同じ枠内に押す、その目的は「余計なことをせず、自分が少しでも消耗するのを防ぐため」です。

ですが、考えてみればハンコを押す枠には、サインでもいい場合や、個性的なハンコでもかまわない場合があるのです。

そんなとき、もしかして、ハンコがもう一個あってもいいかもな……と気づいたとき、ハンコが単に煩わしいだけのものではなくなるかもしれない、と思うのでございます。

 

 

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著者自己紹介

「ぐぐっても名前が出てこない人」、略してGGです。フツーのサラリーマン。キャリアもフツー。

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