何か月か前に
「10年前の「AIに奪われる仕事の予想」が、今見るとけっこうハズれている」
というトピックが話題になっていました。
具体的には、当時は「工員」「接客」「オペレーター」という現場的な仕事の多くがテクノロジーに代替され、「クリエーター」「専門職」「指示的業務」という間接的な仕事がそうではない、と予想されていました。
そして現在、AIの進出が目につくのがクリエイティブ分野など「そうではない」とされていた領域の方であることは、誰でも身近に感じることです。
他方、現場的な仕事もロボットがそのまま入っていける業務であれば自動化されるようになりましたが、その多くは人の手と判断を必要としています。
世間一般の反応を主観的にまとめますと、正直、「人を使う側に都合良く進まなくてざまあみろ」という風であったと感じます。まあ、ざまあみろは大げさかもしれませんが、10年前に期待された結果にならなくて残念だ、というようにはとても見受けられませんでした。
わたくし含む多くの一般人というのは、仕事生活の大部分を非クリエイティブな世界で過ごしているのですから、どちらに肩入れをするのかは明白であり、さもありなんでございます。
ただし、そもそも、わたくしたち日本人というのは子どものうちから一定の方向性で背中を押されてきたのではないかともいえます。
それは、
「より複雑に考えること、なにかを生み出すことに絶対的価値がある」
という方向性です。
仕事に際して、それは「付加価値をもたらすことが仕事の本質である」という形で表現されます。
仕入れたものをより高く売ること、労働時間あたりでより高い賃金を得ること、難しいことを身につけて周囲と差をつけることで収益化すること、それらはすべて「付加価値」として、尊いとされます。
逆にいえば、そうでないものは尊くない、価値のない、意味のないものといえます。
現代に生活する以上、このルールに異を唱える人はいません。しかし、同時に社会は高い付加価値が認められる以外の工程がほとんどを占めてもいます。チェーン店のサービスに従業員の個性をふんだんに発揮されてもこまりますし、交通公共機関の行き先がクリエイティブであってはならないのです。
にもかかわらず、「考えること」「新しくつくること」が上であり、そうでないものが下であるヒエラルキーは薄暗い雲のようにわたくしたちの頭上にいつもたれこめており、それはけっして晴れることはないのです。