最近、社内に導入されたある自動化ツールがどう使われているかについて、発表される場がありました。
そこでは、現在何件の処理を行っており、延べ何時間の節約になったか…という発表が行われましたが、ようはこれくらい役に立っています、という報告会でした。
そのツールはたしかに役に立つものでした。
同時に、その社内担当者からは導入前に聞いていたことがありました。
「このツールは人が手を使っている作業を自動化させるので、それが非効率だったら、そのままで自動化されてしまいます」
おそらく、担当者がツールのメーカーか納入元から聞きおよんだ、導入に際しての大原則だったのでしょう。
ただし、その話が出たのは、そのときの一回だけでした。
効率化の対象自体について、現時点で改善すべきところが本当にないのか、妥当なのか、それが検証されることはなく、わたくしを含めたスタッフ全員がスタートと同時に導入作業にかたっぱしから従事していたのが事実だったのです。
おそらく、わたくしたちというのは掃除の時間にホウキを持たされた中学生のようなもので、「いわれたことをやる」というのがタスクの全部なのでしょう。
そもそも掃除とはなにか、なんのために行うのか、なにをもって良しとし、悪しきとするのか、という抽象度の高い考察や判断は、組織や集団であれば前もって上位が決めるはずで、それは当然のことです。
問題は、上位でもそういった抽象的考察を行う発想を持っておらず、また、どこかで議論をしても集団の考えを固める習慣を持っていないことです。
そして、ここから私見ですが、一言でいってこれは文化によるものではないかな、とも思うのです。
わたくしの属しているのは製造業ですが、モノつくりに関しては課題やトラブルが途絶えたことがかつてなく、そこではかなりの時間を投入して議論が繰り返されているのを見ています。レベルはわかりませんが、新しい価値に到達するためのトライアンドエラーが活発に行われているのはたしかです。
一方で、それ以外の、会社が「本業」と見なしていない付帯業務についての知的投資は悲しいほどプアであるのが否定できません。
中小企業では会社の意志と同一といえる社長自身、能動的な関心は「製造」に集中しています。
製造についての自負が会社のアイデンティティならば、それ以外の至らなさもまた、会社の本質の一部なのです。