今週は!
ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』がベストセラーになったせいか、「~全史」なる本をよく目にするようになった。時間の貴重化が進み、手っ取り早く知識を得たいという欲求、また現代社会が抱える問題が複雑化していくなか、単眼思考では解決が難しいといった背景があるのだろう。
ボクもこういった類の本はわりあいと好きで、とくに科学史や技術史に関するものには、ついつい手が伸びてしまう。特定領域や分野の歴史的な流れを俯瞰して学ぶことができるだけでなく、そこで生まれた「言葉」にまつわるエピソード拾いというネーミング観点からの楽しみがあるからである。以前も、このブログでデジタル革命史を綴った本『イノベーターズ』を介して、コンピュータ用語の起源を紹介したことがある。
さて、今回紹介するのは『遺伝子-親密なる人類史-』原題:THE GENE-AN INTIMATE HISTORY-』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)。いわば遺伝子全史とも呼べる本である。著者シッダールタ・ムカジーは、インドのニューデリー生まれの医師・がん研究者。米コロンビア大学で准教授を務める一方、優れたノンフィクションライターでもあり、デビュー作『がん-4000年の歴史-』ではピュリッツァー賞も受賞している。(このように理系と文系に橋を架けることのできる人物は、残念ながら日本はとても少ない)
-「新しい国」は新しい言葉を必要とする。
と、著者は書く。遺伝子は20世紀に研究が本格化した新しい概念であり、今日に至るまで次々と世界に新しい言葉を提供してきた。もちろん、そこには名付け親が存在する。
本のタイトルにもなっている「遺伝子(Gene)」の名付け親は、デンマークの植物学者ヴィルヘルム・ヨハンセンといわれる。チャールズ・ダーウィンが提唱した「パンゲン(pangene)説」―動植物の内にはジェミュールという粒子があり、それらが親の特徴や形質についての情報を集め、子に伝えるという仮説で、のちに間違った説であることがわかった―を縮め、1909年に名付けた。
似たような響きをもつ「遺伝学(Genetics)」の名付け親は、イギリスの生物学者ウィリアム・ベイトソンで、ギリシア語の「産む(genno)」を語源としているが、こちらもパンゲンに代わる言葉を探しているなかから生まれている。Geneは、その後ゲノムやジェネリック薬品など新たな造語を生み出していくことになる。
コロナ禍でいま盛んに耳にする「変異体(Mutant)」の名付け親は、フーゴ・ド・フリースというオランダの植物学者。自然界に備わった気まぐれな性質をダーウィンは「変種(Sport)」と呼んだが、ド・フリースはより厳粛な言葉を選び、変化を意味するラテン語mutatioからとって、Mutantと名付けたのである。
「スポート(スポーツとスペルは同じ)」と「ミュータント」の厳粛度の違いは日本人にはよくわからないが、ラテン語やギリシア語が元になると、言葉にも箔が付く感じなのかもしれない。以後この言葉がSF小説などで広く一般的に使われていくことを考えると、植物学者の選択は正解だったのだろう。
いくつかの例を紹介したに過ぎないが、『種の起源』を書いた人物が、種々のネーミングの起源にもなっているところがなんとも面白い。