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なぜこんなツマラナイものにこだわるのだろう。そういう「ちょっと変わった人」っていますよね。市川さんはまさにそういう人。でもそういう人が今の時代にはとても大事。なぜなら一見ビジネスになんの関係もなさそうな、絶対にお金にならなそうなものが、価値を生み出す時代だから。凝り固まった自分の頭をほぐすために、ぜひ一度(騙されたと思って)市川ワールドへ足を踏み入れてみてください。
「あなたは金 or 銀、どっちが幸せだと思う?」
銀メダルよりも、銅メダルの方が幸せ。
金メダルよりも、銀メダルの方がその後の人生の収入が高い。
こんな記事を見かけたことがあります。
記事によれば、アメリカの大学がオリンピックの表彰台に立った選手たちを表情分析した結果、銀メダリストは、金・銅メダリストに比べると笑顔が極端に少なかったそうです。
心理学者の考察によると、銀メダリストは「もしかすると金メダルを獲れたかも」と嘆く一方で、銅メダリストは「4位になってメダルが獲れなかったかもしれない」という状況もあって幸せを感じやすいのだとか。
なるほど、僕がフィリピンで空手の大会に出場させられたとき、3位になったのですが、結構嬉しかったですね。
表彰台に登り、トロフィーも頂きましたから。4位以下はそれら全てありませんので。
また、僕の初戦の対戦相手が氷の柱とかへし折ったりするフィリピンで有名な空手家だったので、「あぁ、これは死んだわ…」って臨みました。
それが延長までいって、スプリット判定の末に生き残っただけでも儲けものでしたから、さらに3位になれて嬉しかったです。
また、金メダリストになるとキャリアがその競技に固定されて、他の可能性や選択肢が狭くなり、モチベーションも低下していく一方で、それと比較すると銀メダリストは他の可能性を模索しやすいのだとか。
その結果、金メダリストよりも、銀メダリストの方が高収入を得ていたということも多いようです。
金メダリストになることでブランディングが効きすぎて不自由になるのはありそうですよね。
これは、シドニーオリンピック柔道100kg超級の銀メダリスト、篠原信一さんを連想させます。
篠原さんは、決勝で、内股すかしにより相手選手をカウンターで投げ飛ばし、相手選手と陣営も「負けた…」と膝をついて愕然となる中、一本じゃない!?というね。びっくりでした。
これは世紀の誤審として、当時大きな話題となりましたが、その結果、篠原さんは金メダルを獲得する以上に注目され、テレビにも引っ張りだこでした。
そこで彼のキャラクターが引き出されて、その後はバラエティでも大活躍していきますよね。
もし、金メダリストになっていたら、僕らは篠原さんの柔道の強さ以外の魅力を知ることはなかったかもしれません。
オリンピックなんて神々の領域ですから、僕には全くわかりませんけども、例えば仕事のコンペでは優勝者(金メダリスト)にしか仕事は来ませんよね。
最終2社まで残っても失注したら、銀メダルもなにもありません。
ゼロです。(それどころかマイナスですね)
オリンピック選手は本当にすごいって思いますが、ビジネスマンも結構シビアな戦いの場に立って、毎日のように真剣勝負しているんですよね。
ところで、篠原さんが銀メダルを獲ったシドニーオリンピックって、もう20年以上前のことなんですね。
なんか、それをついちょっと前のような感覚で思い出しちゃう自分がいて、一体いつから時計が止まっているんだ!?って恐怖を感じます(汗)
著者/市川 厚(いちかわ あつし)
株式会社ライオンハート 代表取締役会長
https://www.lionheart.co.jp/
LH&creatives Inc.(フィリピン法人) CEO
https://lionheart.asia/
<経歴>
三重県の陶芸家の家に生まれる。
(僕が継がなかったので、父の代で終焉を迎えることになる…)
大学時代、遅めの中二病を発症。経済学部に入ったのに、何を思ったか「ファッションデザイナーになるんや!」と思い立ち、大学を中退。アパレル企業に就職。
ところが、現実は甘くなく、全く使えない僕に業を煮やした社長から、「Webサイト作れないとクビだからな!」と言われ、泣く(T_T)パソコンの電源の付け方も知らなかったけど、気合でWebサイト制作を習得。しかし、実際のところは、言い訳ばかりで全く成長できず・・・怒られて、毎日泣く(T_T)そんな頃、「デザインにも色々ある」と改めて気づいて、広告業界へ転職、広告制作会社のデザイナーとしてのキャリアをスタート。
「今度は言い訳をしない!」と決めて仕事に没頭し、四六時中仕事していたら、黒目がめくれ上がってきて、眼科医から「失明するよ」と言われ、ビビる。2004年勤務先で出会った同僚や友人を誘って起業、有限会社ライオンハートを設立(現 株式会社ライオンハート)。ところが、創業メンバーとあっさり分裂、人間不信に。残ったメンバーと再スタート。
2014年、設立10周年を機に、創業メンバーで唯一残っていた人間を日本法人の社長にし、自身は会長になり動きやすい状態を創る。この頃からブランディングエージェンシーを名乗り始める。
2016年、フィリピン(マニラ)にITアウトソーシング企業(LH&creatives Inc.)を設立。設立準備期間から家族とともに移り住み、フィリピンで3年半を過ごす。
フィリピン人マネジメントを通して、猜疑心の塊になり、性悪説に変わる。
2019年6月、日本に帰国し、日本法人のマネジメントに復帰。社内コミュニケーションを充実させるために席替えしたり、誰も掃除しない椅子をきれいにしたり、「眠いときはしゃべった方が良いよねッ」ってスタッフに話しかけながら仕事をするなど、独自のインナー・ブランディングの理論を実験していたところ、会社の調子が上がった。そもそもブランディングってなんだ?と思っていたところに、BFIの安田さんと出会い、勝手にご縁を感じてコンサルを受けてみる。そしたら安田さんに誘われ、2020年、anote konoteに参加することに。