その220「僕には縁が無い『世襲』という世界」

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なぜこんなツマラナイものにこだわるのだろう。そういう「ちょっと変わった人」っていますよね。市川さんはまさにそういう人。でもそういう人が今の時代にはとても大事。なぜなら一見ビジネスになんの関係もなさそうな、絶対にお金にならなそうなものが、価値を生み出す時代だから。凝り固まった自分の頭をほぐすために、ぜひ一度(騙されたと思って)市川ワールドへ足を踏み入れてみてください。

「僕には縁が無い『世襲』という世界」

人には、使う側と、使われる側の2種類ある。

ドラマか漫画で登場するような言葉を使う経営者の方に出会いました。
この言葉は、お子さんへの帝王学のようなものの中で、極端な例えとして使っていらっしゃったのですが。
それなりの規模の会社で、世襲だとそうなるのか!って、ちょっと感動しましたよ。
また、経営者であり株主でもあるので、従業員とは違うのだ、ということを強調しているのだと思います。
封建的と言えばそうですが、ここで言いたいのは、それぞれに役割があり、株主、経営者としての役割をしっかりと意識しないとダメだよ、ということを伝えているようでした。

それとは別に、人には能力や資質にも壁がある、とその経営者は言います。
できる人とできない人の間には壁があって、その壁は超えられない、と言うわけです。
可能性を信じたい僕としては、「いやいや、そんなこと言っちゃったら、元も子もないでしょう。じゃあ、皆が大谷翔平になれるのか?とか、そういうのは無しですよ!」と言いかけましたが、音痴な僕がボイストレーニングを重ねたところで、一曲くらいはそこそこ歌えるレベルにはなれるかもしれないけど、結局そこ止まりだということが頭をよぎります。
つまり、人には得手不得手、資質というのが確かにあって、音痴な僕がどんなに努力しようとも、一流の歌手のように様々な曲を上手く歌うことはできないのです。
残酷なことですが、事実ですよね。
その経営者は、「人を使う立場になるのであれば、資質を見て、適材適所を心がけなさい」と伝えていたわけです。

この世襲というのはすごいですね。
子育ての段階から、経営者としての教育が始まっていて、普通の家の子供達とは全く違う子供時代をおくるのだと感じます。
子どもたちの意思はさておいて、「継がせる」と決めているわけですからね。
親側の必死さってありますよね。
陶芸家の家に生まれて、陶苑なるものがあるのですが、「絶対に継がないほうが良い。公務員になれ!」と言われ続けた僕とは大違いですw

後継者の家庭では、僕が保育園に行って鼻水垂らした奴らとザリガニを捕まえていた頃、防犯カメラが完備された(僕は)聞いたこともない学校で勉強していたりしますから。
それで、後継社長同士が「え、私もそこ出身だよ」なんて話をしていて、「え、それが普通なの!?」って驚きました。
子どもの小中学校の選択のときには、「私立受験するんでしょう?」と当たり前のように聞かれますしね。
僕はバリバリの公立校通いでしたので、私立受験なんてそもそもの選択肢が頭に無いわけです。
そう考えると、なんか、後継者ってスタートラインから全てが違うんだって思いますね。
まさにそこには僕が超えられない「壁」がありますよ。
と同時に、代々の資産を守る、大きくするという世襲の責任の重さも感じますよね。

後継者って、育ちが良いからなのか、性格もおおらかで、良かったりするんですよねぇ。
これじゃ僕が妬んでるみたいで嫌なんで、ムカつく性格の悪い後継者に出会いたいですよ。

・・・何の話してましたっけ?

 

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著者/市川 厚(いちかわ あつし)

株式会社ライオンハート 代表取締役会長
https://www.lionheart.co.jp/

LH&creatives Inc.(フィリピン法人) CEO
https://lionheart.asia/

<経歴>
三重県の陶芸家の家に生まれる。
(僕が継がなかったので、父の代で終焉を迎えることになる…)
大学時代、遅めの中二病を発症。経済学部に入ったのに、何を思ったか「ファッションデザイナーになるんや!」と思い立ち、大学を中退。アパレル企業に就職。
ところが、現実は甘くなく、全く使えない僕に業を煮やした社長から、「Webサイト作れないとクビだからな!」と言われ、泣く(T_T)パソコンの電源の付け方も知らなかったけど、気合でWebサイト制作を習得。しかし、実際のところは、言い訳ばかりで全く成長できず・・・怒られて、毎日泣く(T_T)そんな頃、「デザインにも色々ある」と改めて気づいて、広告業界へ転職、広告制作会社のデザイナーとしてのキャリアをスタート。
「今度は言い訳をしない!」と決めて仕事に没頭し、四六時中仕事していたら、黒目がめくれ上がってきて、眼科医から「失明するよ」と言われ、ビビる。2004年勤務先で出会った同僚や友人を誘って起業、有限会社ライオンハートを設立(現 株式会社ライオンハート)。ところが、創業メンバーとあっさり分裂、人間不信に。残ったメンバーと再スタート。
2014年、設立10周年を機に、創業メンバーで唯一残っていた人間を日本法人の社長にし、自身は会長になり動きやすい状態を創る。この頃からブランディングエージェンシーを名乗り始める。
2016年、フィリピン(マニラ)にITアウトソーシング企業(LH&creatives Inc.)を設立。設立準備期間から家族とともに移り住み、フィリピンで3年半を過ごす。
フィリピン人マネジメントを通して、猜疑心の塊になり、性悪説に変わる。
2019年6月、日本に帰国し、日本法人のマネジメントに復帰。社内コミュニケーションを充実させるために席替えしたり、誰も掃除しない椅子をきれいにしたり、「眠いときはしゃべった方が良いよねッ」ってスタッフに話しかけながら仕事をするなど、独自のインナー・ブランディングの理論を実験していたところ、会社の調子が上がった。そもそもブランディングってなんだ?と思っていたところに、BFIの安田さんと出会い、勝手にご縁を感じてコンサルを受けてみる。そしたら安田さんに誘われ、2020年、anote konoteに参加することに。

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