日本でビジネスを行う。それは「日本人相手に物やサービスを売る」という事。日本人を知らずして、この国でのビジネスは成功しません。知ってそうで、みんな知らない、日本人のこと。歴史を読み解き、科学を駆使し、日本人とは何か?を私、泉一也が解き明かします。
― “世間”というワクチン(後編)―
幕末の日本は、欧米諸国が主人公となった群雄割拠の大航海時代の端っこで、平和な世間に生きていた。そんなお花畑な日々も、ペリーの東インド艦隊来航とともに終わりを告げた。日本は、隣国清のアヘン戦争による成れの果てを見ていたので、この巨大なる力に飲み込まれないよう、societyをドーンと輸入した。戦後、小麦をドーンと輸入して、給食がパンと牛乳一色になったように。
現在も似たようなもの。GAFA+Mのプラットフォームに日本人皆がドーンと乗っている。まさに、当時の強者欧米のプラットフォームであるsocietyに乗ったのだ。
日本は西洋のsocietyを定着させようと必死になった。フランスとドイツに学び、最終的にはドイツ式の憲法と議会制を導入した。日本によりフィットすると見込んでコピペした。コピペしたことでいち早く封建主義を脱却し、民主主義と資本主義が導入され、富国強兵への道を突き進み、植民地化は免れた。
しかしそこから絶え間なく戦争を続ける国となる。
日本は富国強兵策が成功し、産業・経済・軍事が飛躍的に成長し国力は一気に高まった。欧米と同じように世界覇権の道に進み、日清戦争と日露戦争で勝利をおさめ、維新からたった50年で世界の五大国となる。
日本はこうして世界のリーダーとなっていくのだが、欧米諸国は庶民が政治に参加する「自由市民」にならんと命懸けの革命を通して生まれた自立心あふれる「society」であったが、日本は急いでコピペしたことで、その積み重ねがないままに一足飛びの擬似societyを作ってしまった。
蛇足かもしれないが、日本式の自由・民主を実現しようとしたのが板垣退助であるが、板垣の危惧はコピペ日本の荒廃を想定したのだろう。設計思想を持たない「コピペ社会」は、主体性のない市民がつくる社会となる。マスコミやネットの情報に飲み込まれ、TVタレントが次々政治家になる現状を見ると板垣の危惧は現実になったかもしれない。
設計思想がないままに「世間」を「society=社会」にしたことで、自立した個人が不在のまま、借り物社会を生活の土台とした。見様見真似のフラワーアレンジメントが無様であるように、その無様がわかった日本人は、欧米に対して「劣等」を持ってしまうことになる。
ちなみに野球はベースボールとは一味も二味も違った日本式を磨いてきた歴史がある。日本から超一流のベースボールプレイヤーが生まれているのはそういった歴史があるからだろう。一方、資本主義という競技では日本式を磨かないまま今日にいたったため、超一流選手がほとんどいない。ジャパンアズNo.1と言われていたが、数々の特需や為替の恩恵が大きく、経済バブルが弾けたことでメッキが剥がれてしまった。
日本人は間(ま)に主体的に生きていた。世の中の間を一緒に豊かにしてきた。生花のように。今、日本が間抜けな国に見えるのは、ガチガチの契約で間を埋めたからだ。問題が起こると、「それは私の仕事じゃない、私の責任じゃない、そんな約束をしていない」という言葉でいっぱいになることがその現れである。
で、どうするのか。もう一度最初から「間」づくりをすればいい。身近な人からちょうどいい間合いを探し出し、そこに豊かさを見つけ出す。一人一人の関係から間を見つけ、育て、豊かにし、その間を集めて新しい世間をつくればいい。
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と、ここまで読むと、「確かにそうかもしれんけど、具体的にどうしたらええねん!」と悶々とした副反応の熱が出てきたらOK。しばらく、ゆっくり頭を休めながら、前編・後編を読んだ後の「間」を感じて欲しい。
読後感を味わうことで、心に間が生まれてくるはず。この間がワクチンとなって、劣等ウイルスへの抗体が生まれてくるだろう。ただし、治験期間が短すぎて確約はできないので、世間を取り入れるかどうかは、自己判断に任せることにしよう。
泉 一也
(株)場活堂 代表取締役。
1973年、兵庫県神戸市生まれ。
京都大学工学部土木工学科卒業。
「現場と実践」 にこだわりを持ち、300社以上の企業コーチングの経験から生み出された、人、組織が潜在的に持つやる気と能力を引き出す実践理論に東洋哲学(儒教、禅)、心理学、コーチング、教育学などを加えて『場活』として提唱。特にクライアントの現場に、『ガチンコ精神』で深く入り込み、人と組織の潜在的な力を引き出しながら組織全体の風土を変化させ、業績向上に導くことにこだわる。
趣味は、国内外の変人を発掘し、図鑑にすること。