第175回「日本劣等改造論(7)」

このコラムについて

日本でビジネスを行う。それは「日本人相手に物やサービスを売る」という事。日本人を知らずして、この国でのビジネスは成功しません。知ってそうで、みんな知らない、日本人のこと。歴史を読み解き、科学を駆使し、日本人とは何か?を私、泉一也が解き明かします。

 ― “天賦の才”という特効薬(前編)―

「うちの子は天才に違いない」

親は子を見てそう思う。赤ちゃんの時は特に。

人間は脳が大きすぎるため、運動機能が未成熟でも出産する。狭い産道を通れるうちに。同じ霊長類で比較してみると、100キロあるゴリラの母親から産まれてくる赤ん坊の体重は1700グラム程度であり、赤ん坊は生まれてすぐ母親にしがみつくこともできる。

さらに、人間は未熟児の状態で産むにも関わらず、出産が困難を極める。ゴリラやチンパンジーは介助者がいなくても母親一人で産むが、人間は介助者が必要で、それでも母親が命を失うことが多い。

出産に困難を極めて産まれた弱々しい未熟児が、首が座ったり、ちょっとでも笑ったり、物をつかんだり、言葉を発したり・・と人間らしい行動をすると、親は感動する。その大きな成長を感じて、「うちの子は天才だ!」となるのだ。

親は「成長の喜び」という魅力に取り憑かれ、子の成長に干渉したくなる。やがて子供が幼稚園や学校に行きだし、他の子供も目に入ってくると、他の子の成長度合いが気になり、自分の子と比べ始める。そしてより子供の成長に一喜一憂する。

子は親の顔色を見ながら、心配をかけまいと他人より上に行こうと頑張る。この親孝行な子は「他人よりも」といった親の期待の裏側にある「親のエゴ」を知らない。この「親のエゴ」は感情の裏側に隠れているので、あぶり出してみよう。

親は周りの子と自分の子を比べて、優れていると安心、劣っていると心配といった、「優越感=快」と「劣等感=不快」の間を行ったり来たりする。劣っていたら子供の将来が心配になるのは当然だろう。「不快を快に変えたい」という本能が働いて「優秀な子供に育てる!」といった教育が始まる。

親は「子供の将来のために・・」という愛情で接しているつもりだが、その裏には「自分の不快を快に変えたいという欲=エゴ」がある。親と子は互いがこのエゴの存在を知らないまま過ごしていく。愛情と孝行という美しい仮面をかぶったまま。

それでも、子が「優秀」を得られればハッピーエンドとなるが、そうは簡単にはいかない。優秀を得られるのはほんの一握りだから。優秀を得られなかった親と子は、責め合うか罪悪感を持ってしまう。


<責め合う場合>

親「この子は天才だったのにサボった。私は期待して一生懸命育てたのに。この子は親の気持ちをわかってくれなかった。」

子「親の期待に応えようとがんばったのに認められない。親は結局、自分の思い通りにしたかっただけ。ニセの愛情だった。」

<罪悪感を抱く場合>

親「私がちゃんと育てることができなかったから、天才のあなたをダメにした。親として私は失格」

子「親の期待に応えられず、親を失望させたダメ人間だ」


親と子が責め合って反目し、罪悪感を抱いて引け目を負う。悲劇でしかない。

悲劇はここで終わらない。この関係は次の世代にまで引き継がれる。責め合った子が親になると「自分は本当の愛情で子を育てよう!」ともっと強烈な押し付けが始まる。罪悪感の子が親になると、自分のようなダメ人間にならないように立派に育てようと、より優劣の快・不快に支配される。

これを世代間連鎖というが、この連鎖は断ち切りたい。その断ち切るハサミが「天賦の才」である。劣等ウイルスの特効薬でもある、天賦の才について、後編では秀才と天才の違いをテーマにしながら、紐解いていこう。
 

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著者情報

泉 一也

(株)場活堂 代表取締役。

1973年、兵庫県神戸市生まれ。
京都大学工学部土木工学科卒業。

「現場と実践」 にこだわりを持ち、300社以上の企業コーチングの経験から生み出された、人、組織が潜在的に持つやる気と能力を引き出す実践理論に東洋哲学(儒教、禅)、心理学、コーチング、教育学などを加えて『場活』として提唱。特にクライアントの現場に、『ガチンコ精神』で深く入り込み、人と組織の潜在的な力を引き出しながら組織全体の風土を変化させ、業績向上に導くことにこだわる。
趣味は、国内外の変人を発掘し、図鑑にすること。

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