【コラムvol.17】
『受け売り』は、『盗品販売』なのか。

「ハッテンボールを、投げる。」vol.17  執筆/伊藤英紀


受け売りは、みっともない。これは、わかる。なぜわかるかというと、僕にもやってもうた経験があるから。「聞いている人、なんかちょっと感心しているけど、しまったなあ、いま出どころ言わなかった…まあ…いいか」と流してしまったことがそれなりにあるからだ。

人の意見をかすめ取って、あたかも自分が考えたかのように思わせて、自分は賢いとか、情報通だとか見せかける。あさましいのお、ハズかしいのおと言われても仕方がない。出典をはっきりさせないのは、ずるいドロボー野郎です。

でも、もう少し深く掘ってみると、『受け売り』には考えるべき大事な論点があると思う。身も蓋もない言い方をすれば、「人間はぜんぶ受け売りだよね。ちがう?ちがうとすればどのあたり?」という論点だ。

人は書籍や評論誌や情報メディアを読む。他者の発言を聞く。人は誰かから必ず学んでいるし、情報を得ている。ということは、人間が発する意見や考えとは、人類が蓄積してきた教養や誰かが取材した情報、誰かの着想や思考法からの派生である。純度100%の独自見解など存在し得ない。

つまり、グラデーションはあるが、人間の意見とは多かれ少なかれ『受け売り』だ、ということになる。でもこの結論を全面的に受け入れられる人は、いないだろう。僕もそうだ。受け入れられねえなあ。

僕が書いているこの乱文だって、確かに、僕が過去に脳にインプットしてきた知や情報のカケラをミキサーにかけてドロドロと練りだしているわけだ。でも、「受け売りを書いているわけじゃない」と思っている。なぜそう言える?根拠はなんだ?自問自答してみる。

そうそう、この自問自答ってポイントに、その根拠を見いだせるのではないか。あの、言っておきますけど、出典を明らかにすれば、受け売りの非難や軽蔑から逃れられる、というのはその通りなんですが。人の会話において、いちいちすべての出典を明らかにしていたら、かなりへんてこなコミュニケーションになりますね。きっと会話放棄になる。ちょっとやってみましょうか。

「でもさ、なにごともそうだけど、大事なのは根っこなんじゃない?美しい花は根っこがささえていると、相田みつをの言葉にあるよ。」
「そうかなあ。樹にとって大切なのは根っこや果実じゃないよ、じつはタネなんだよ。ニーチェが言ってた。」
「タネが気紛れな風に運ばれるように、僕らもまた偶然の大地をあてもなく彷徨う。村上春樹にそんな一節があるなあ。」
「だからさ、なんやかんや言っても結局、お好み焼きはソースよりタネってこと。あ、おねーさん、豚玉3人前ちょーだい!」

…なんの話やねん。よかったら飲み屋でやってみてください。たぶん30分でメンドくさくなって「帰ろっか」と解散。トボトボと帰路につくことになります。

さて、話が横道にそれたので、『自問自答』の本道に、トコトコと走ってもどります。自問自答とはなにかというと、つまり、ツッコミがあるということですね。誰かの受け売りの考えであっても、そこに自分なりにツッコミを入れ応答し、を繰り返すと、そこに『受け売り』とは断じがたい自分なりの着想や考えの根拠が生まれてくるのではないか。

2件のコメントがあります

  1. 「はい」と返事するのがめっちゃ早い人。「いいえ」と決めるのもめっちゃ早い人。本読むのがめっちゃ早いと自慢する人。それは自分ツッコミしてない人。

  2. 本読みメッチャ遅い。理解したいのに理解できない箇所があると、ツッコミを入れるために関連本を読みます。どうでもいいなと思った本は捨てます。

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