「ハッテンボールを、投げる。」vol.75 執筆/伊藤英紀
ふたりで日本酒を六合ほど飲んだ。土屋は頭の芯に酔いを感じてはいたが、感情の動きは雲に覆われたように鈍い。脳も不活発で高揚はない。酔いに身をまかせることができない。
会話はとどまることなく流れた。が、それはまさにただ起伏なく流れただけであった。とりとめのない思い出をなぞるような話と、近況報告のようなうわべ話の類だ。
つまらない夜だった。28年を経て得たものはほぼなかった。ふたりの会話には晴れ間がのぞくことも風が吹くこともついぞなく、霧に遮られてだらだらと惰性で足踏みしているような夜だった。土屋は早く切り上げたかった。山内もそうであったろう。
ふたりはつまらないままに、次の約束をすることもなく静かに別れた。
「28年ぶりの再会なんてこんなものだ。」土屋はタクシーを拾い乗り込むとすぐ、スマホで仕事メールのチェックをした。山内も同様で、タクシーに行き先を告げるとすぐ、性愛関係にある若い女に電話をかけた。
音信が途絶えた時間の長さ、28年の沈黙の長さだけ、ふたりの距離もまた順当にへだたっていただけの話である。
それから10日ほどが経った。
土屋は穴の奥にいた。勾配のついた横穴の中で、掘り起こしたばかりのような赤土に囲まれている。粘り気と湿気をたっぷり含んだ土だ。一歩を踏み出そうとするが柔らかい土に足を取られる。凹凸のある粗い傾きに足がもつれる。
前方にさらに傾斜のきつい箇所があり、その先の縦穴がどうやら出入り口らしい。幾筋かの光が漏れている。
「これは牛の穴だな。」
土屋はそう思った。その瞬時、目前に白い泡状の涎を垂らした赤毛の牛の大きな頭が現れた。ひん剥いたその目は充血しており、昂奮の奥に怯えをたたえて土屋を見下ろしている。
土屋は牛の足を見た。それは、人間の足だった。牛の頭部は消え、目の前には人間の顔があった。色黒で白い布を頭に巻きつけたその男は、声は聞こえないが怒鳴っている。邪魔だ、どけ、ということらしい。土屋は怒りで満ちた。
両の拳を男の顔面に振るった。一片のためらいもなかった。しかし怒気で軀が強張り、力をうまく操れない。それでも拳を幾度も叩きつけた。
土屋は、高速道路に立っていた。鮮血を滴らせた男が数人歩いているのが見える。土屋は凄惨だと感じている。「交通事故だな。」そう思った。
そのとき、土屋の肩を叩く者がいた。真横からそいつの顔がぬっと迫った。山内だった。山内は土屋をじっと見据えて言った。
「おい、そろそろ返せよ。」
その眼には見覚えがあった。15歳。中学時代の山内の眼だった。
土屋は眠りから覚めた。首筋は冷たく湿り、グレーのTシャツの首元は汗が滲み濡れていた。その日はオフだった。前日の夜は午前3時まで痛飲し、まだアルコールが全身に気だるく残っている。
時計を見ると午前11時を回っていた。朦朧とした頭で夢を反芻しつつ、習慣から仕事メールをチェックした。「うちでPR用の映像を作ることになった。頼めないかな。相談に乗ってくれ。」
山内からだった。夢がひびを入れたようだった。いや違う。夢が教えてくれたのだ。
ふたりの蓋にちいさな亀裂が入っていることを。惰性に流されたあのつまらない夜の冷たく乾燥した空気が、蓋の水分を奪いひずみを生み、ひび割れをつくったことを。
「近々、俺は山内に会うことになる。でも蓋が開くことはない。亀裂が入った蓋そのまま、この沈黙の28年がそうであったように、ふたりして蓋をしつづけるだろう。互いが互いの間にある蓋の実体をひしひしと感じあっている。そんな共感にさえ、これからも互いに蓋をしつづけるだけだ。」
蓋の強度は、亀裂が走ることでさらに高まった気がした。土屋はペットボトルの蓋を開け、ぬるい水を乾いた喉に流し込んだ。
何かを埋め隠すために、人は蓋をする。しかし、蓋をすることで、何かの存在感は一層強くきわだち、その声量は大きくなる。蓋は何者をも隠さない。
人はそれでも蓋をする。そして、他者には見えない蓋の存在をまといながら、蓋と共に生きていくのだ。