第183回「日本劣等改造論(15)」

このコラムについて

日本でビジネスを行う。それは「日本人相手に物やサービスを売る」という事。日本人を知らずして、この国でのビジネスは成功しません。知ってそうで、みんな知らない、日本人のこと。歴史を読み解き、科学を駆使し、日本人とは何か?を私、泉一也が解き明かします。

 ― めぐる文化(前編)―

いつ めぐり逢うのかを
私たちは いつも 知らない
(中島みゆき「糸」より)

目の前に続く一本道をひた歩いていると、ふと合流してくる道があって、タイミングよくばたりと出会ってしまう。偶然なのに「会うべくして会った」という必然をそこに見る。

めぐり逢うことは直観的にわかっていたが「いつ逢うのか」それが分からなかっただけなのだ。

なぜ直観的にわかっていたのか。それは「めぐる」ことを知っているから。めぐるとは循環。循環の輪の中に私はある、と生物としての本能が教えてくれる。その輪があまりにも大きかったり、複数の輪が幾重にも重なったりするので、思考では捉えきれない。

地球が太陽の周りを循環し、太陽系も銀河系の中で循環しているなんて普通に生活している中で想像つかない。しかし本能は教えてくれる。循環の輪の中で自分の命が生かされていて、その命は何かから生きるための大事な何かを受けとって何かへそれを渡しながら循環を担っていることを。銀河よりもっと壮大な宇宙の中で。(何かだらけ・・)

理解することを「分かる」という。分かるとは分けること。原因→結果、生産→消費、私→相手、と一方通行に捉え、良い⇔悪い、正しい⇔間違い、優⇔劣と二極に分ける。劣等感はここから発生している。本当は一方通行と二極では捉えられない領域のほうが多いのに、思考を主人公にすると、抜け漏れだらけ。抜けもれない思考をせよ、それがロジカルシンキングだと誰かが言っていたが、全くのダダ漏れである。だから「私達はいつも分からない」のだ。

分別をつければつけるほど、循環から離れ、私と他者を分断し、「個」を生きることになる。

個の世界では、「自」と「他」は違うものなので、究極わかり逢うことはなく、ともに生きるには、社会上のルールが必要にある。憲法をつくり法律に落とし込み、義務と権利、そして契約というルールが土台となった社会を築くことになる。ルールを守らせる仕組み、ルールを判定する仕組みが整備され、やがて「ルールを逸脱しなければ何をしてもいい」といった個人主義の社会が生まれた。

「個人」を大切にするために、ルールを精緻にしていったことで、檻が幾重にも重なるように分断が進み、個人は孤立し、めぐり逢っているのに「なぜめぐり逢うのか」を私たちはなにも知らなくなった。

行き着くところ、檻付きの「個人家」の住人となり、めぐり逢うことがなくなる。タワマン1棟に1000人が住んでいても、みんな何処にいったのか。同じように70億近くの人が地球上にいてもめぐり逢わないのだ。

人類全体がそうなれば、宇宙の循環から逸脱することになり、やがて種として滅びるだろう。恐竜が自ら大きくなることで繁栄しようとしたが、逆に滅んでしまったように。宇宙から飛来した隕石で。

こうして時代はめぐるのだ。

中島みゆきの曲のように、前編は暗くなったが、後編は明るさを求めて、希望の星を探しに行こう。また来週!

 

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著者情報

泉 一也

(株)場活堂 代表取締役。

1973年、兵庫県神戸市生まれ。
京都大学工学部土木工学科卒業。

「現場と実践」 にこだわりを持ち、300社以上の企業コーチングの経験から生み出された、人、組織が潜在的に持つやる気と能力を引き出す実践理論に東洋哲学(儒教、禅)、心理学、コーチング、教育学などを加えて『場活』として提唱。特にクライアントの現場に、『ガチンコ精神』で深く入り込み、人と組織の潜在的な力を引き出しながら組織全体の風土を変化させ、業績向上に導くことにこだわる。
趣味は、国内外の変人を発掘し、図鑑にすること。

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