SNSのコメントなどで、ときどき自分がうまく言えないときに
自分のコメントに(語彙力)とセルフ突っ込みを入れる言い方を見かけます。
「すごい」とか「おもしろい」とか、
そのまんますぎる感想をいってしまう際に
すごい(語彙力)
のように使う、みたいです。
あるいは、説明が上手なことを褒める際に
「言語化ができている」
という言い方がされたりもします。褒めるときに限りませんが、
説明や表現について「言語化」という単語は近年好んで使われています。
「語彙力」にしても「言語化」にしても、
本来の意味とは少し離れた俗語的なニュアンスがあり、
その中心には「伝えること」への志向性があるようです。
ちょっと大袈裟にいえば、語彙力と言っている人も
実際にボキャブラリーの不足を残念に感じているのではなく
「自分の外に出したいモノを文章にするのはわずらわしいので
そう思っていることだけでもわからせたい」
ということでありましょうし、
「言語化」にしても
ふつうに「表現」というだけでは充足できない感覚があり、
そこで新鮮な響きがあって選ばれた言葉が「言語化」だったのかな、と思います。
それほどまでに、現代のわたくしたちは
「どうにかうまいこと表現したい」
「なんとか伝えたい。そして理解されたい」
というニーズを皆共通して抱えているように見受けられます。
たとえば今の時代、有能、知的とされる著名人は
当人が蓄えてきたライブラリーの大きさと品質で評価されるわけではなく、
それをマスの層にどれだけわかりやすく届けられるか、
という能力によって名声を得ているわけです。
一方、社会におけるコミュニケーションは
ネットやツールを最大限に活用するべきとされ、
少しでもムズカシイコトバと文字を使う量を減らして
少しでも五感(とくに視覚)に訴えることが正しい手段とされる世の中でもあります。
にもかかわらず、そういった社会の欲求をあらわしたスラングが
「語彙力」だったり
「言語化」だったりすることは
ちょっぴり皮肉なことではないでしょうか。