自分と同年代の、高級腕時計マニアのおじさんの動画チャンネルで、
新卒社会人の若者が
「学生時代のバイト代をためて買った高級時計を会社につけていっていいものか」
と質問していました。
それに対し、チャンネル主の方は、懇切丁寧に
「若いのにしっかりお金をためる意思を通せてえらい」という言い方からはじめ、
「趣味や価値観は、当然尊重されるべき」こと、
しかし
「高級時計をつけている若者を見て、やっかむ者はいるかもしれない」
「その受け取り方は他人次第で、自分ではコントロールできない」
「ましてや仕事を教えてもらう新卒の立場ではリスキーである」
と順を追って諭し、
「周囲から一目置かれていることが確認できてからの方がいい」と結論付けていました。
もう、ぐうの音も出ない正論です。
コメント欄も、年齢層の高さからなのでしょうが、同意見が集中していました。
わたくしも、個人的にはもぞもぞした感覚をおぼえながら、
少なくとも他人様と意見を交わすならば、同調させていただくことになります。
その、もぞもぞなどと、なにがあるのかと申しますと、
自分がこういう考え方を「常識」として身につけたのが、
割合最近になってからのことなのです。
ちゃんとした社会人であればとっくに通過していることについて、
人生も残り時間を考える段階でこんなことを告白しなければならない、
たいへんお恥ずかしいというほかございません。
しかし、少しだけ弁解させていただくとすると、
こういった「常識」は、わからないかぎりわからない、
体験的な気づきに基く通過儀礼のようなもので、
昨今の時代ではより感じにくくなっている事象ではないのか、ということです。
たとえば、職場の飲み会はいつの時代も下の人、若い人に楽しいことは少ないでしょう。
昔と違い、あれこれ気を使わなければ無礼ということもなくなってきたでしょうし、
場合によっては拒否することも可能になっているかもしれません。
一方、そんなイベントでスマートに立ち回れたり、
有益な人間関係を築くきっかけを作れる人は「コミュ強」などといわれますが、
それは生まれながらのコミュ強「だから」できるというより、
各種イベントを潜り抜けながら身につけたものでコミュ強に「なった」はずです。
ウソかまことか、昨今、若者によっては職場の飲み会に対して
「残業代はつくんですか?」というとかいわないとか申しますが、
もし本当だとして、それが当人を良い方向に導くことはあまりないでしょう。
言われる方にも気持ちがありますからね。
しかし、言われる方にも気持ちがあるという単純な事実にすら
「気づき」がいるという、
これが難しさなのかもしれません。