その129 早熟

スポーツや芸能の世界でまれに現れる、
十代のころからトップクラスの成績を出す人のことを
「早熟の天才」
と評したりします。

そういう人に対して使われるだけあって、
「早熟」という言い方は、あまり頻繁に日常では使われることはないと思います。
たとえば、身近な子どもに向かって使うとしても、
それは「大人っぽい」に代替可能だったりします。

おもに「早熟」が指し示すのは、
年齢の期待値に対して出すパフォーマンスがすごい、
という事例についてです。
逆に、実年齢が成人に達してしまえば
今度は大人のクラスの一個人として評価される対象に変わる、という感じでしょうか。

そんなように
アスリートなど才能系の世界にあてはめやすいのが「早熟」なのかな、
と個人的には捉えていましたが、
最近、べつの世界で存在を知った人に、
これこそ「早熟」と表現するべきではないか、と思いました。

その方はアスリートではなく、ビジネスマンでした。

二十代半ばに会社員だったときから投資を始め、
三十代に独立し、四十代で自分のビジネスをスケールさせていました。

ご自身で発信しているプロフィールと情報なので、
額面通りに受け取る内容かはわかりませんが、
その人が語っていたことのいくつかは

「もともとサラリーマンだったし、自分は凡人だ」
「お金の不安があり、お金が欲しいところから始まった」
「家族と幸せを築くことがなにより大事」

といったことでした。

自分は凡人である、という気づきは、多くの人がどこかで思い知る真実です。
また、社会で生きている以上、
どこかで本気でお金に向き合わなくてはいけないということも、そうです。
そして、人生で自分の支えになるのは
究極的には家族以外にはありえないということも、そうです。

お金の重要性も家族の重要性も、いずれも繰り返され言い古されつくしたことですが、
その本当の意味が骨身に染みるのは、成人になった瞬間ではありません。

いままでどこかでオトナが言っているのを耳にするたび
陳腐だなあと思っていたアレが、
人生の過程で無意識のうちにちょっとずつ理解がすすみ、
ある日自分の中にふと真実として落ちてくるのです。

生きているだけで学ぶことに乏しかったり、
そういったことに致命的にカンの悪い人間であったら
へたをすると中高年になってやっと理解できるようなことかもしれません。

前述の方の場合、そういう誰でもいつかは到達するあたりまえの真実を
若いうちから自分のものにしたこと、
これこそが「早熟」というべき「才能」なのです。

……あれ、結局は「才能」なのかな……。
 

 

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著者自己紹介

「ぐぐっても名前が出てこない人」、略してGGです。フツーのサラリーマン。キャリアもフツー。

リーマン20年のキャリアを3ヶ月分に集約し、フツーだけど濃度はまあまあすごいエッセンスをご提供するカリキュラム、「グッドゴーイング」を制作中です。

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