「あれ、〇〇さん、××使ってるんですか?」
先日、職場の近くの席の方がわたくしのパソコンの画面をたまたま見て、声をかけてきました。
「そうです。△△で…」
「△△なら、□□の方がいいですよ」
「□□ってなんでしょうか」
「それはですね…」
と、いうような会話の結果、そこから数分間、レクチャーを受けることになりました。
やりとりをしながら自分で途中で気づきましたが、最初にその方が声をかけたことは、それはわたくしに対して質問をしたのではなく、最後の□□に誘導するためのものだったのです。
ようするに、「教えたがりのおじさん」のよくある現出がそこにあったわけです。
(わたくしも十分すぎるおじさんですが)
一説によると、おじさん、おっさんというものは、脳の性質の変化により、言いたいと思ったことを抑えられなくなっている、といいます。
それが口に出るのがオヤジギャグであったり、ハラスメントじみた不用意な発言であったりするわけです。
とはいえ、おじさんこそ、自己の態度を決めるのは自分ではなく相対した相手であって、下手に出るべき相手から決してひんしゅくを買ってはいけないという、世間から受けるしつけが骨身にしみている人種であり、センシティブな若い方が余計なことを言わないのかといったら、それも状況次第じゃないのかな、という気もいたします。
ただ、おじさんが一般にそういう傾向にあることはたしかであり、こと仕事の場において、この「教えたがりおじさん」気質というべきものは、はたして価値があるものでしょうか。
おじさんが教えてくること、これをノウハウとしての価値の有無で判断しようとすれば、役に立つことには意味があり、そうでなければ無駄話、と区分されます。
ですが、おじさんから出てくるノウハウというのは、すでにほとんどが十年二十年の年月を通過した物事から構成されており、新しいほど価値があるというノウハウ的算定基準では到底高い値段がつけられるものではありません。
しかし、おそらく多くの方がどこかで経験されていることですが、世の中では世代も価値観もまるで共通点がない間柄のコミュニケーションが、上から下へ
「教えるという体」
を取って行なわれていることがそこそこにみられます。
年配者がなにかをコーチングし、年次が下の者がそれをうやうやしく拝聴する。
それによって年配者は自己の経験が社会とつながっていることを少し再確認することができ、聞き役はおっさんの相手役を務めあげたというタスクの完了を得ることができるのです。
そうやってコミュニケーションが成立すれば、人間関係的な意味で、受け手側にも間接的ですがメリットとなることが期待できるのです。
……もっとも、それって、付き合ってメリットのあるえらいおっさん限定なので、冒頭の場合はまあ、付き合わされただけかなあ……。