古典的なビジネス格言のひとつで、「仕事の報酬は仕事」という言葉がございます。
取り組んでいる仕事で実績を上げる。それによって、チャレンジングであるけれども自分の新境地を拓く分野だったり、ワンランク上の場所に移行する仕事を任される。それは、単に昇給したりボーナスを与えられるより、はるかに大きい価値をもたらす。
そんなようなことだと思います。
わかりやすく、芯をついている名言といえましょう。
しかし、現実でその通りのことが起こっているかというと、あまりそうとはいえないようです。
どうにかノルマを達成したところ、次期に行われるのは機械的なノルマの積み増しであったり、自主的に効率化を進めた結果、業務量が増加したりするのが、むしろ世の中の常であるようです。
これこそが「仕事の報酬は仕事」だと、ブラックジョークのように表現する向きもあります。
被使用者の立場だと、こういった現実に対して、消極的なサボタージュでもって対抗している場合も多いようです。ノルマは達成できそうだけど、実績が突出しないように一部をこっそり来季に持ち越したりするのはその典型であるわけです。
(あるいは、それをさせないように管理職が目を光らせたり、とか)
そもそも、業務を行う者はできる限りの成果をあげ、それに対して前向きな新しい仕事が割り振られる、という正のサイクルはなぜ成立しにくいのでしょうか。
正論としては、使用者と非使用者のそれぞれの利害が避けがたく衝突するから、でしょう。
使用者は雇用というコストに対して最大のコスパを求め、非使用者は可能な限りその逆を追求することが個人のコスパを最適化することになるからです。
しかし、感想としては、誰かの手足として日々働いていても、労働のコスパを考えることなど正直あまりないものです。
それより、もっとウエットな、感情ベースの関係性が占めるところが多いのではないでしょうか。
非使用者の視点からみて、仕事の結果としてチャンスが回ってくるのか、それとも単なる負担の増加になるだけなのか。使用者の視点からみて、なにかの権限や機会を与える価値があるのか、それとも給料を払うからいるだけの労働体なのか。
両者が言外にプラスの感情でかみ合って、はじめて「仕事の報酬は仕事」は成立しえるのではないかと思えるのです。
……そういえば、以前からわたくしの勤めている会社では、お金を使うにあたって必要な稟議の限度額が「1円以上」になりました。
つまり企業人として、自分の一存ではうまい棒1本が買えないんだなあ……。