仕事の場では、誰もが頻繁に、他人に「時間を奪われる」ことがあると思います。
わたくしの身近なところでいうと、たとえば電話を受けたら見知らぬ会社さんからの営業だったとき、「時間を奪われる」ような気持ちになったものです。昔は。
ただの従業員ですらそうなのですから、たとえば経営者の方だと、自分の時間的リソースをどこに割くのかというのは毎日の重要な問いであり、望まない電話や他者の一方的なアプローチに割り込みを受けるというのは許しがたいことなのではないかと想像いたします。
あるいは、自己の能力に自信があるような方も、総じて時間の充て方にはシビアで、「時間を奪われる」ことに厳しい傾向があると思います。
時間が有限であり、その配分が重要であることは当然です。
「働く目的は稼ぐことである」のと同じくらい、自明のことです。
わかりきったことを申しますと、働く目的が経済的成果ということは、働いている時間の生産性を高くしていく必要があります。だからこそ、成果にならなかったり、他人のために消費されてはならないという意識になるはずです。特に、他人が自分の仕事のために自分の時間的リソースを利用したとき、それは瞬時に「時間を奪う行為」と変換されるわけです。
ちょっと極端な例ですが、レーサーなど、タイムで成績を競うスポーツの当事者で、コンマ何秒の差異が生活を大きく変えてしまう環境にいたとしても、ときにはダラダラと家のソファで動画を見て一日を過ごしてしまうこともあるでしょう。
もし、一般労働者のように「雇用契約がオンのときのみ労働と経済価値の交換が発生する」というルールの中にいれば、オフでは何をしていても構わないかもしれません。
しかし、レーサーにとってレースのときだけがオンで、それ以外がオフであるというわけでもありません。
きっと、タイムを競っていないときにも最終的にタイムにつなげるための行動が必要とされているはずです。パフォーマンスを上げるためのなにかとして、時にはゴロゴロすることがあるのかもしれません。
実は、ここで、レーサーや経営者と、一般労働者との相違が生まれています。
働く → 稼ぐ
のは、すべての働く人に共通していますが、
働く → 生産性を上げる → 稼ぐ のは、労働者だけの構図だからです。
労働者は工場の設備と同じで、稼働しなければお金を生みません。と同時に、工場で設備を稼働させるときは売れる先があるときです。そこではじめて、「生産性を上げる」ということがテーマになりうるのです。
ということで、もう無条件に「時間を奪われる」のを敵視している人というのは、立場によらず労働者だったって……コト!?(ちいかわ風に)