HR 第3話「息子にラブレターを」
HR特別室からほど近い中華料理屋で昼食をとっていると、テーブルの上に置いてあったiPhoneが震えだした。ちょうど大きな唐揚げを頬張っていた俺は、画面に表示された「本社」の文字を見て咽そうになり、思わず口を押さえる。
「本社」というのはもちろん、俺が所属する株式会社アドテック・アドヴァンスの本社のことだ。営業マン同士は基本的に携帯電話で連絡を取るから、固定番号からかかってくるということは、マネージャーや同僚からの連絡ではない。俺の頭には既に、鬼頭部長の顔が浮かんでいた。慌てて水を飲み、咳払いをして、受話ボタンを押す。
「は、はい。村本です」
「あ、村本くんご無沙汰〜」
体中に走っていた緊張が一気に消えていく。
「あれ? もしもし? 島田だけど」
わかっている。
島田というのは俺と同じ営業一部の営業マンだ。同期入社の20人の中で、もっとも呑気で、もっとも馴れ馴れしく、もっともウザい人間だ。上の嫌がらせか、営業一部のオフィスでは隣同士の席。これで営業成績も悪くないのだからたちが悪い。
「……なんで固定なんだよ」
「ん? なにが?」
「だから、なんで固定電話からかけてんだよ」
「ああ、僕今日、携帯電話忘れちゃって」
うふふと笑う島田に、殺意が湧く。何なんだこいつは。営業マンにとって携帯電話は必要不可欠な道具だろう。それを忘れてよくも笑えるものだ。
「なんの用だよ」
俺は言いながら周囲を見回す。遅めのランチだったこともあって店内は空いている。
「もう、そんな言い方ないじゃない。元気かなと思ってかけてるのに」
「うるせえな。どんだけ暇なんだ」
こいつと話しているとイライラしてくる。相手を怒らせる天才だ。こんなやつに発注するクライアントの気が知れない。
「で、そっちはどう? どんな研修受けてんのさ」
ふと、島田の声のトーンが真剣になった気がした。なんだ? と思いつつ「どうって……まあ、いろいろだよ」と答える。鬼頭部長からの命令でHR特別室に送り込まれて今日で3日目になるが、研修っぽいプログラムなど一度も受けていない。頭のおかしいメンバーに振り回されているだけだ。
「そっちこそどうなんだよ」
俺は話を変えた。こちらの状況をどう説明すればいいのかわからなかったからではなく、島田の声を聞いて、俺がこっちに来ている間、営業一部がどんな状況なのか気になってきたからだ。
「いや、それがさ」
「なんだよ」
「結構、苦戦してるんだよね、皆」
「……そうなのか?」
さすがに驚きを感じた。営業一部といえば、AAのエリートが集められた花形部署だ。担当するのも大企業ばかりなら、売上も全事業部中ダントツで1位。年々上がっていく売上目標も、なんなく達成し続けてきた。そんな営業一部が、苦戦している?
「でも、先週は達成してただろ、週報読んだぞ」
毎週金曜日の締め切り後、社員全体に広報される週報メールにて、営業一部がきちんと達成していることは知っていた。俺の担当顧客についても、原稿内容が毎週ほぼ変わらないという状況もあってだろうが、問題なく入稿されていた。その件で俺に連絡が入ることもなかった。だからこそ営業一部は、いつも通り危なげない達成をしたのだと思っていた。
「いや、あれ、ちょっと裏ワザ達成だよ」
「え……マジかよ」
裏ワザ達成。
様々なテクニックを駆使して、達成「したように見せる」ことをそう言う。いや、実際に受注しているわけだから達成には違いないのだが、普通なら2度3度に分けて計上する受注を1回にまとめたり、ルールの隙をついて既存顧客を新規顧客扱いにして高いマージンを得たり、キャンペーン情報をわざと伏せて割高な料金で受注したり、といった「グレー」なテクニックによって、辻褄を合わせているのだ。「お願い営業」と言って、仲のいい顧客に「今週どうしても数字が足りなくて……」と泣きついて、それほど必要のない受注をもらうことすらある。
一言で「達成」と言っても、中身はいろいろだ。二部三部ではこの裏ワザ達成が、毎週のように繰り返されているとも聞く。だが、営業一部に関しては、そういう「裏ワザ」をせずとも達成できるのが当然とされていた。だが、島田は続けて驚くべきことを言った。
「それに今日、いくつか大型案件が落ちてさ」
「え……どこだよ」
思わず聞くと、電話の向こうで島田が口元を押さえたのがわかった。今、島田のいるオフィスでは禁句なのだろう。
社名を聞いて、思わず息を呑んだ。先日俺が落としたM社レベル、いや、場合によってはもっと大きな受注をしていた大口顧客だったからだ。
「それ……今週だけか? それともAA自体が切られたのか」
「詳しいことはまだわからないけど、でも、なんかおかしいよね」
「おかしいって、なんだよ」
俺の質問に、いつも快活な島田が珍しく歯切れ悪く答える。
「うーん、なんとなく、流れが変わってきてるっていうか」
「なんだそれ、具体的に言えよ」
「今までのウチのやり方が、通用しなくなってきたのかもねえ」
話を続けたかったが、「あ、ごめん、呼ばれてるみたい」と島田は言い、一方的に電話を切った。
「なんなんだよ、全く」
言いながら、嫌な感覚を覚えた。俺のM社に続き、AAの営業一部がずっと担当してきていた大口顧客が数社、突然取引を停止した。何が起こっているのか。島田の「ウチのやり方が通用しなくなってきた」という言い方が耳に残っている。
◆
HR特別室に戻ると、いつもソファでうつらうつらしている室長が、珍しく慌ただしげに動いている。ジャケットを着て、鏡の前でネクタイを締めようとしているではないか。
「あれ、どこか行かれるんですか」
「ああ、うん、ちょっと病院にね」
病院? どこか具合でも悪いのだろうか。そんな風には見えないが……。聞いていいものか迷っていると室長はビクリと震え、「ああ、びっくりした」と言ってポケットから携帯電話を取り出した。
「いきなり鳴るから嫌だよね、電話って」
いや、いきなり鳴らない電話などないだろう。しかもバイブにしているから、厳密に言えば鳴ってはいない。
「はい、宇田川です。ああ、社長! どうもどうも。え? ええ、いや、そんなの全然お気になさらず、ええ、今から伺いますので」
考えてみれば、室長は少し島田に似ている。小太りな体型も、とぼけた話し方も、異様な呑気さも、俺と話が噛み合わない所もそっくりだ。もっとも、まがりなりにも入社時から3年間を一緒に過ごしてきた島田と違い、俺は室長という人間のことをまだほとんど知らないのだが。
「ねえ、君……ええと……」
「村本です」
「ああ、そうそう。村本くん。悪いんだけど、ネクタイ締めてくんない?」
「は?」
「昔から苦手なんだよねえ。何度教えてもらっても上手に結べないんだよ」
「……」
なんなんだこの人。
仕方なく言われた通りにしてやると、「ああ、上手上手。やるねえ」などと無邪気にはしゃぐ。俺より一回り、いや二回り近くは上のはずなのに、まるで子どもみたいだと思う。
「よし、じゃあ、行こうか」
「は?」
「は? じゃないよ。研修だよ研修」
「いやだって、病院に行くってさっき……」
「うん、アポ先が病院なんだよ」
ああ、そういうことか、と納得する。俺たち求人業界は、人を採用するすべての会社がクライアントになり得る。飲食業、製造業、士業、そして、医療業。実際、病院、歯科、接骨院、薬局、あるいは老人ホームやデイサービスといった介護施設などとの取引も実際多いのだ。
だが、ここはHR特別室。俺の予想を常に裏切ってくる。
「約束してた社長が入院しちゃってさあ。病室で商談しようって言うもんだから」
◆
HR特別室を室長と共に出発して、約30分。到着したのは葛西駅から徒歩10分程度の場所にある、総合病院だった。3階建てであまり大きくはないが、奥に長い独特のつくりだ。
「具合悪くないのに病院行くのって、なんか罰当たりな気がしない?」
よくわからないことを言いつつ、室長はタッチ式の自動ドアに触れる。あまり新しくないのだろう、足の悪い老人のようなスピードで扉が開く。
言葉とは裏腹に、室長の足取りは軽い。まるでスキップくらいしそうな勢いだ。入ってすぐに総合待合があり、そこは老若男女でごった返していた。そういえば、インフルエンザがどうの、というニュースが昨日やっていた気がする。俺は思わず口を手で押さえつつ、室長の後を追う。
「総合案内」とプレートのかかった受付スペースに行くと、室長は深々とお辞儀しながら名刺を差し出した。
「こんにちは、私、こういう者です」
ベテラン風の受付スタッフがギョッとした顔で室長を見返す。確かに、病院の受付でいきなり名刺を出してくる人間は多くなさそうだ。
「今日は、中澤工業の中澤社長とお約束があって参りました」
50台半ばくらいだろうか、大手企業の経理課にいそうな雰囲気の女性スタッフは、冷たい目で室長を見据えると、手元のファイルを開いた。入院患者のリストなのだろう。
「お約束……ご面会ですね」
パラパラとページをめくりながら言う受付スタッフに、室長は言う。
「違いますよ。私は商談に来たんです」
ファイルに置かれた手が止まり、ゆっくりと視線が上がる。
「……商談」
「そう、商談です。病院で商談なんて、珍しいですよねえ」
何がおかしいのか、1人で笑う室長に受付スタッフは顔をひきつらせ、そして、なんなんですかこの人、とでも言わんばかりの目を俺に向ける。……いや、そんな怖い目をされても、俺にだってさっぱりわからない。
俺が苦笑いを返すと、受付スタッフはため息をつき、意外なほどあっさりと部屋番号を教えてくれた。こんな変人には関わらない方がいいと思ったのかもしれない。
患者で満載のロビーは嫌でも騒がしかったが、室長と二人廊下を進んでいくと、いつの間にか病院独特の空気になった。小さなころよく行った市民プールを思い出す消毒液のにおい。内科、皮膚科を過ぎ、キヨスクに似た小さな売店を抜けると、目的の入院棟入り口があった。それを示すプレートの上に、走る人間の描かれた非常口の誘導灯があって、妙に不気味だ。
入院棟に入るといよいよ臭気は強くなった。消毒液に人間の生活臭というか、汗と排泄物の生々しいにおいが重なる。節電なのか蛍光灯が半分ほど消されているせいもあって、空気は重い。
「あの……それで、どういう案件なんですか」
さらに廊下を進みながら言う。本当に奥に長いつくりだ。この様子だと入院患者も多いのかもしれない。
「どういう案件って?」
「いや……だから、どういう客なのかとか、募集職種はなんなのかとか……」
「ああ、僕もまだ詳しくはわからないんだよ。とりあえず行ってきて、と言われただけだから」
「とりあえずって……」
「三部のお客さんでさ、ちょっとトラブってるみたいなんだよねえ」
「え?」
驚きつつも、またかと思う。こないだ保科と行った案件も、社長がカンカンだった。最終的になんとかおさまったからよかったものの、どうしてHR特別室はこういう案件が多いんだ。
……そう考えて、俺は気づいた。
HR特別室というのは、営業部でどうにもならなくなった客を押し付けられる、いわばクレーム処理班なのではないのか。鬼頭部長が電話で、「HR特別室はそう甘くねえぞ」と言っていた理由も、そういうことなのかもしれない。
ということは俺はやはり、M社の件で「罰」を与えられたということなのだろうか。
げんなりしながらエレベーターに乗った。大手企業ばかりを担当する営業一部の俺が、三部の客に会いに行くなんて、それだけで屈辱だ。
3階に上がり、人もまばらなナースセンターを横目に廊下を進む。あの騒がしかった総合待合がウソのような静けさだ。
「あ、ここだここだ」
やがて室長が言い、ごめんくださーいと呑気に言いながら、引き戸をスライドした。
そこは個室ではなく、左右に3つずつベッドが並んだ6人部屋のようだった。そのうちいくつかのスペースはカーテンが閉じられ、中の様子は窺い知れない。だが、物音を聞きつけたのだろう、右側の一番奥から、ひょこっと顔を出す男がいた。
「ああ、どうも。こっちです」
ニコやかな初老の男性だ。どうやらあの人が今日の商談相手らしい。トラブってる、と聞いていた割には、別段怒っている様子はない。
「ああ、これはこれは。中澤社長でいらっしゃいますか」
室長に続いてベットの脇まで行くと、社長の首から下が見えた。くたびれた灰色のパジャマを着て、ベッドの背もたれに体を預けている。六十代前半、といったところだろうか。白くなった短髪に角ばった輪郭、深いシワの刻まれた褐色の肌。厳つい風貌ではあるが、全体的に小柄なのと、小動物のような優しげな目をしているからか、受ける印象はやわらかい。
「先ほどはお電話ありがとうございました。私、こういう者です」
室長がいつものように深々と頭を下げ、名刺を差し出す。
「ああ、こりゃこりゃ」
社長は慌てた様子で、隣に置かれた棚の引き出しを開け、裸の名刺を取り出す。
「どうもどうも、私、中澤です」
「よろしくお願いします」
ふっと社長の視線が俺に向いた。
「ああ、彼はちょっと研修でついてきてまして」
「あ、すみません。村本と申します」
「ああ、そうですか。どうもどうも」
社長はニコやかにそう言って名刺をくれ、俺のものも丁寧に受け取ってくれた。その節くれだった指に、現場系の仕事だろうかと考える。
「ゴメンなさいね、こんなとこまで来てもらっちゃって。椅子あるから、座ってください」
壁に立てかけられたパイプ椅子を2つ用意し、室長と並んで座る。
「それで、ご容態はいかがでしょう」
あらためて室長が聞いた。
「ああ……いや、大したことねえんです。昔からちょっと心臓が悪くてね。疲れがたまると、悲鳴を上げますもんで。でも、二三日こうやって休めば、もう元通りになります」
「はあ、そうなんですか。確かに、見た目にはお元気そうに見えますけども」
室長が言うと、社長は苦笑いして手を振った。
「まあ、私のことは別にいいんですわ。……それより、さっそく話をさせてもらいたいんですが」
「求人の件ですね」
室長が言うと、社長は真剣な顔で頷いた。
「随分お急ぎのようですけど……ひとまず、御社のことをいろいろ聞かせてもらいたいんですが」
「いろいろ、と言いますと?」
「求人広告というのは、常にオーダーメイドですのでね。まずは御社のことを知らねば、何もご提案できません」
室長が言うと、「ははあ、そりゃそうだ」と社長は笑い、頭を掻いた。人の良さが滲み出ている。こんな人とどうやったらトラブルになるというのか。
「中澤工業は、どんな事業を?」
「そうですねえ。まあ、一言で言や、製造業ですわね」
「製造業」
室長はいつの間にか取り出したメモ帳を開く。
「まあ、それじゃあ何のことかわからんわな……ええと、電気検査に使う機械の、そのまた部品を作ってます。非常に小さなモノなんだが、それがなきゃ検査自体ができませんので、大事な部品なんですわ。まあ、普通の人は見たことも聞いたこともないだろうね」
「なるほど。製造規模は、どれくらいですか」
「今は月産2万本から3万本くらいかな。本当はもう少し増やしたいんだが、なにせ小さな工場だから」
「社員さんはどれくらいいいらっしゃる?」
「社員なあ……まあ、身内でやってるような会社なもんで。私がいて、家内が経理をやって、社員が3人、あとはパートの事務員が1人。ああ、そうそう、他にベトナムの子らがいますわ」
「ベトナムの?」
「なんつうの、そういうの、やっとるんですわ。日本で技術を学んでね、本国に帰って、頑張るっていうね」
「ははあ、なるほどなるほど」
室長は大きく頷いて、メモを取る。ちらりと見るが、あれは字なのだろうか。汚すぎて何を書いてあるかわからない。とはいえ、社長の話を聞いて、少しずつ中澤工業という会社の様子がわかってくる。いわゆる町工場、小ぢんまりとした工場なのだ。社長のやわらかい人柄のせいか、イメージは特に暗くはない。
「失礼ですが、ご自身が創業を?」
「ああ、いやいや、そうじゃないんだ」
室長が聞くと、社長は大げさに手を振った。半袖のパジャマから伸びる日に焼けた腕、その肘の内側に、止血用の絆創膏が貼られてある。血液検査をしたのか、あるいは、点滴でもしたのか。病状がわからないだけに想像が膨らむ。
「私が中澤で、社名が中澤工業だから、そう思いますわね。……でもね、これは偶然なんです。たまたま、中澤さんって人がやってた会社に入ってね。まあ、同じ集落の出の人だから、まったくの他人ってこともないんだが。ほら、あるでしょう、同じ苗字ばかり集まったような集落が。うちは中澤ばかりの集落で」
「はああ、なるほどなるほど」
「もう20年くらい前になるかな、その中澤さんが引退するってんで、私が会社を受け継いでね。同じ中澤だから都合がいいわ、なんて笑ってましたけど。もう八十代後半なんだが、元気なもんです。揚げ物なんかが好きでね。ありゃ、胃が強えんだなあ」
「ははあ、先代とは今でもお会いになる」
「そりゃ、親父だからなあ」
「え? でも、本当のご家族ではないって」
「ああ、そうか。ややこしいんだが、うちの家内がね、先代の娘なんですわ。もともと中澤工業で事務をやっとりましてね。それで一緒になったんで、私も先代の身内になったんだな。まあそれは社長を継いだあとのことなんだがね。結婚式もあげたですよ。中澤家と中澤家の結婚式で、親族みんな中澤です。もう司会者も訳が分からねえって顔しててさ」
楽しそうに笑う社長に、「ははあ……これはなかなか複雑だ」と、室長が困った顔をして頭を掻く。
「そうでしょうなあ。自分でもどこまでが家の筋で、どこからが家内の筋かと、わからんくなるものね。……まあ、とにかく、自分で興した会社ではないんだけども、先代には随分世話になったし、家内のこともあるでしょうが。だから人一倍頑張ってはきました。大事な会社を潰しちゃならねえってさ。おかげで体はこんな状態になっちまったわけだけども」
「お体、もう昔からですか」
「そうだなあ。まあ、年々弱くなりますわ。頭で大丈夫と思っても、体がダメだと言う。そろそろやめときなさい、もう若くないんだよって」
「ははあ、なるほど。そういうものですか」
「社員たち……まあ、こいつらも長いんで、もう家族みたいなもんなんだが、最近は社長に向かって怒りよりますわ。無理するな、死んだらどうするんだって。私、叩き上げなもんで現場が好きでね。本当はもっと機械に触っていたいんだが、そうやって周りがうるさいもんで、なかなか。どいつもこいつも大袈裟でいかん」
社長は困ったような笑顔を浮かべる。元気そうだが、周囲がそんなに心配するのだとしたら、かなり悪いのかもしれない。実際こうして入院しているのだ。当たり前のことだが、健康な人は入院したりしない。
だが、それならなぜ、俺たちを呼んだりするのか。採用なんて、具合がよくなってから、少なくとも退院してから考えればいいではないか。社員の誰かに任せることだってできるだろうに。
室長も同じようなことを感じたのか、話の方向を変えた。
「ということは、社長がこうして現場から離れることになって、それで新しい人が必要になったと」
室長の言葉に、なるほどそうかと思う。十人に満たない小規模な工場だ。高齢な社長と言えど、普段から現場に出ている人間が1人抜ければ大きな痛手になるのかもしれない。
「ああ、違う違う。そういうんじゃねえんだけど」
社長は手を振って否定し、それから「どう言やいいんだろな……」と天井を見上げる。
「私が現場を離れることは……まあ、そんなに影響はないです。製造といっても、今はほとんど機械がやってくれますでね。それに、知識的にも技術的にも、もう私より社員たちのほうが上なんだ。私が居なくたって奴らがいれば現場は回る。何の心配もありません」
話がよくわからない。それならばなぜ、新しい人間を入れなければならないのか。
「ふむ……では、どうして」
室長も同じことを思ったのだろう、そう聞いた。すると社長の笑顔が、微かに歪んだ。そのままゆっくりと視線を落とし、数秒黙った後、ポツリと言った。
「実は、辞めさせたい奴がいるんですわ」
「……え?」
意外な発言に、思わず室長と顔を見合わせた。人の良さが滲み出ているような社長だ。社員を辞めさせないよう頑張ることはあっても、辞めさせたいなどという言葉が出てくるとは思わなかった。
「ええと……それは、御社の社員さんを、ですか」
室長が確かめるように聞くと、社長は頷いた。
「そうです。あいつにはどうしても、辞めてもらわにゃならん」
怒りなのか悲しみなのか、微かに潤んだ小さな丸い目が、布団の上を見つめている。その表情にはある種の覚悟が見えた。何があったのかはわからないが、社長は本気で言っている。それがよくわかった。
「あの、そのお話、もう少し詳しく話していただくことはーー」
室長が言いかけた時だった。
俺の正面10メートルくらい先、つまり先ほど俺たちが入ってきたこの大部屋の扉が、勢いよく開けられたのだ。
扉を開けたのは、医者でも看護婦でもなかった。かといって患者にはとても見えない、海外のラガーマンのようなガタイをした作業服姿の男だった。
その男は、明らかに敵意を込めた目で室内をぐるりと見回すと、まっすぐ一直線上にいる俺に視線を留めると、大きく目を見開いて、ズカズカと大股でこちらに近づいてきた。
「うわ、ちょ、何……」
思わず腰を浮かせたが、壁際にいる俺に逃げ場などない。男はあっという間に目の前まで来ると、巨大な体で覆いかぶさるようにして顔を近づけてくる。
「おい……なんなんだ、あんたら」
男は予想以上に大きかった。身長は恐らく180センチ以上、体重も100キロを越えているかもしれない。空手をやっている同級生が、組手の相手としては縦に長い奴より横に長い奴の方が怖いと言っていたが、縦にも横にも長いこんな男は一番嫌だろう。
「いや……あの……え?」
あんたら、と言いつつなぜか男は俺に向かって言った。なんなんだと言われても……いや、ていうかそっちこそなんなんだよ。いきなりこんな……
頭の中で思うが、あまりの迫力に言葉が出ない。
「ウチの社長に何の用だ。こんな所まで押しかけてきやがって」
……ウチの社長? そう思ったときに、横から声がした。
「おい、やめろ! この人らは違うんだ」
中澤社長だった。小さな目がいっぱいに見開かれている。
だが、男は社長を横目でチラリと見ただけで、すぐに俺を睨みつけ、言う。
「違うわけあるか。知り合いでもねえ奴が見舞いになんかくるかよ」
丸坊主に無精髭、ニキビの跡、ドスの利いた声。まさに体育会系と言うか、プロレスラーだと言われても信じる。
「見慣れないやつが来てるって言うから飛んできたんだ。商談、だと抜かしたそうじゃねえか。こんな病人つかまえて、何が商談だこの野郎」
その言葉に、そうかと思う。受付にいた女性だ。あの神経質そうなスタッフがきっとこの男に言ったのだ。あの人が室長を変人だと思ったのは間違いない。というか、実際、変人なのだ。病院の受付で「面会ではなく商談だ」と言い張る人がまともなわけがない。
これはまずいことになった、と思う。
「いや……あのですね……」
俺は両手を体の前に出し、「まあまあ」という体勢になる。何とも情けないが、こんな男を前に虚勢を張れるほど、俺は揉め事に慣れていない。何より、俺たちがここに営業に来ているのは間違いない事実なのだ。もっとも、俺だって好きで来たわけじゃない。この頭のおかしい室長に無理やり連れられて……
「ああ、こりゃどうも!」
室長が元気に言い、俺と男の間に、尻をねじ込むようにして入ってきた。
「ご挨拶が遅れました。わたくし、こういう者です」
室長が躊躇なく頭を下げ、まるで男に対して頭突きをするような形になった。男は「わっ」と言って体を引き、室長が高々と差し出した名刺越しに、なぜか俺を見つめる。その顔には、なんなんだよこいつ、と書いてある。
いや、だから、俺に聞かれてもわからねえって。
苦笑いを浮かべ、自分でもどういう意味なのかよくわからない会釈をして見せると、男はわけがわからないという顔で名刺を受け取った。
「アドテック……なんだよ、何の会社だよ」
男が言うと、室長ではなく社長が答えた。
「俺が呼んだんだ。無礼な態度をとるんじゃない」
男はチッと舌打ちをする。
「呼んだって……だから一体何しに来たんだよこいつらは」
「この人らは、求人の業者さんだ」
それを聞いた瞬間、男の顔色が変わった。
「……求人?」
絞り出すような声。その顔に浮かぶのは怒りというより、驚きだ。
「どういうことだよ」
男の言葉に、社長は視線を逸らし、窓の外を見る。
「わかっとるだろ」
沈黙が降りた。だが、それも長くは続かなかった。
「……ざけんなよ」
男が呻くように言った。
「ふざけんじゃねえよ! ……馬鹿野郎、俺は辞めねえぞ……絶対に辞めねえからな!」
男の叫び声が部屋中に響き渡った。
◆
「すみませんな、みっともとないとこ見せて」
男が部屋を飛び出していった後、社長が言った。
「いえいえ、とんでもない」
室長は言い、よいしょ、と言いながら俺の隣の椅子に戻った。
「あいつは気が短くてね。いつもああなんだ」
社長が扉の方を見ながら言い、それに俺たちも倣う。引き戸は既に閉じられて、さっきまでの喧騒が嘘のようにひっそりとしている。
「彼……御社の?」
出ていくあの男の姿を見るような口調で、室長が聞いた。社長は頷いて、「困った奴です」と呟く。俺たちを気遣ってか、一瞬笑顔を浮かべて見せたが、それもすぐに強張って、辛そうに視線を逸らしてしまう。
「彼ですか。辞めてもらわなきゃいけない社員さんというのは」
室長の言葉に、ハッとする。
そうだ。俺たちはそういう話をしていたのだ。
室長の質問に社長は答えなかった。だが、裏表のない人なのだろう、その無言が肯定を示していることが、よくわかった。
だが、改めて考えてみれば、当然だという気もした。あんなに感情的な人間を雇っていたい経営者などいない。ただでさえ不祥事にはうるさい時代だ。1人の社員の起こしたトラブルが、会社の存続に関わることだってある。
ーートラブル。
頭に浮かんだその言葉に、ピンと来た。
ここに来てすぐ、室長は「トラブっている」と言っていた。その「トラブル」とは、社長とあの男との話なのかもしれない。俺たちAAと揉めたわけではなく、中澤工業の中でのトラブル。そう考えれば、社長の俺たちに対する態度にも納得がいく。
微かに安堵を覚える一方で、厄介だなとも思う。あの男は「絶対に辞めないぞ」と宣言して出ていった。すごい剣幕だった。社長があの男を辞めさせたがっていることを、あの男自身も知っているのではないか。俺もHR事業者だ。日本の法律のもとでは、正社員の解雇が決して簡単ではないことも知っている。
どうやってあの男を納得させるのか。どうやって「自ら会社を去るように」仕向けるのか。
そんなことを考えている俺の耳に、室長の意外な言葉が入ってきた。
「それにしても、信頼できそうな男でしたな」
驚いたのは社長も同じだったらしい。目を丸くして室長を見つめた。
だが、やがてふっと微笑むと、嬉しそうに言った。
「わかりますか」
「ええ、そりゃあもう」
深く頷く室長を、社長は目を細めて見つめ、そして言った。
「あいつは、中澤工業の、芯になっとる男です」
どういうことだ。一体何の話をしているのか。
あの男はどう考えても、「信頼できそうな男」には見えなかった。それどころか、自己中心的で短絡的で、すぐに問題を起こしそうな男に見えた。
そもそも本当に信頼できる男なのだとしたら、なぜ社長は彼を辞めさせなければならないのか。
沈黙が降りた。わけがわからなかった。
「何があったんです?」
やがて室長が、優しく聞いた。悲しげな表情を浮かべていた社長はやがて、「まあ、話さんわけにはいかんわな」とどこか自嘲的な笑いを漏らし、記憶を探るように天井を見上げる。
「少し前……と言っても、もう3ヶ月前になりますか。あいつの母親が倒れたんですわ。あいつにとって唯一の肉親だ。でも、私らがそれを知ったのは、ほんの2週間前です」
「ほう……それは」
「黙ってたんですな。あいつは母親が倒れたことを知っていて、だけども私たちには言わなかったんです」
「それはまた……どうしてです」
室長の質問に、社長は天井を見上げたまま辛そうに顔を歪めた。だが、俺たちの視線に気付いたのか、すぐに無理な笑顔を作って見せる。だがそれも長くは続かず、社長はすぐに窓の外に視線を投げる。
「これは本人に聞いたわけじゃないから確かではないが……まあ、言えなかった、ということなんでしょうな」
「言えなかった」
「ええ……情けない話なんだが、3ヶ月前といえば、ちょうど納品した部品に規格ミスが見つかって、工場全体で急遽再生産をしてた時期なんですわ。猫の手も借りたいくらいの忙しさだった。あいつは現場の責任者だから、言えなかったんでしょう。母親の容態が、急を要するほどではなかった、ということもあった。だからあいつは、母親のことは自分の胸にしまって、現場の誰よりも必死になって仕事をしたんです」
「ははあ……そんなことが」
さっきの巨体の男が、病気の母のことを考えながらも、歯を食いしばって仕事をしている場面を俺は想像した。もちろん知るはずのないあの男の母の顔は、すぐに俺の母の顔に変わった。布団の中で苦しげに歪むその表情に、胃が嫌な感じで収縮する。
俺にはできるだろうか。親が倒れたとして、それを自分の内に留めたまま、普段通りに仕事ができるか?
「……でもそうすると、なぜ社長は今、お母様のことをご存知なんですか」
室長が聞いて、確かにと思う。途中で気が変わって、告白したということなのだろうか。
「2週間前、ウチで雇っているベトナム人が、こっそり教えてくれたんですわ。班長ーーあいつのことですーーが、ときどき現場を抜けて電話をしてるんだとね。何度か事情を聞いたらしいんだが、気にするなと言って教えてくれない。そういう期間がしばらく続いていたんだが、そいつはどうしても気になって、電話をもって現場を離れるあいつの後をつけた。そしたら、工場の裏で電話をしているあいつが、一人で頭を抱えてたっていうんだよ。何かあったに違いない、心配だからこうして言いに来たって」
「なるほど、そういう訳だったんですね。それで社長は、彼には?」
「ええ、あいつを呼んで確かめましたよ。最初は頑なに何も言わなかったんだが、何かその表情を見てたら心配になってきてね、しつこく聞いたんです。そしたらね……まあ、あいつはあいつで黙ってるのが辛かったんだろうなあ。最後には、母親の具合が悪いんだということを教えてくれた。……聞けば、倒れたのはもう随分前なんだと言うじゃないですか。……あのときは、目の前が真っ暗になりましたな。自分が情けなくて情けなくて……とにかく一度実家に戻るように言いました。仕事はいいから母親に会ってこいと」
「なるほど」
「とにかくこっちのことは気にせず、親子水入らずでゆっくりしてこいと、そう言った。あいつの田舎は愛知県の片田舎でね、うまい地酒もある山奥です。3日とか4日とかじゃなく、ひと月くらいは休んだって構わないと思ってました。……ただね、現実問題、あいつが抜けた分は誰かが埋めにゃならんでしょうが。小さな工場だし、あいつは現場の要だからね。で、それは私がやりゃいいと。責任を感じていたんでしょうな。あいつが話をできなかったのは、私のせいだと思ってたから」
そう言った直後、社長は笑いだした。楽しくて笑っている、という感じではなかった。もっと何というか、自分を嘲るような笑い方。俺と室長は思わず顔を見合わせる。
「それがどうですか。張り切って働いたら、今度は私が倒れてしまいました。大したことないのに、皆が大騒ぎしてしまった。それが愛知にいるあいつの耳にも入りましてね……飛んで帰って来やがった……自分がいなけりゃ会社がダメになる、そんなことを言って」
笑い声はやがて小さくなり、驚いたことに、徐々に嗚咽に変わっていった。
「……私はね、消えたいと思うくらいに、自分が情けないですわ。あいつに、病身の母と一緒にいさせることすらできない……この苦しさが、わかりますか」
「……」
そして社長は、顔を上げた。真っ赤な目で俺たち二人を見て、覚悟のこもった口調で言った。
「私はね、あいつを開放してやりたいんですわ。そのために、新しい人間を見つけなきゃならん。あいつが安心して出ていけるような新人を」
◆
病院を出た俺たちは、葛西駅に向かって歩き始めた。
「難しい状況ですね」
道すがら俺が言うと、「そうだねえ」と室長も同意する。
「でも、どうして社長は、退職にこだわるんですかね。別に、しばらく休暇を取らせるなり休職させるなりすればいいのに。それでお母さんが元気になったら、戻ってくればいいじゃないですか」
それは病室にいるときから感じていた違和感だった。そもそも社長の態度は、イチ社員に対するものには思えないほど、重かった。会社が大変だからという理由であの男が母親のことを言い出せなかったのだとしても、嗚咽するほど責任を感じるものだろうか。
黙って考えている俺を、いつの間にか室長が横目で見ていた。
「……なんですか」
「いや、私も同じことを思ったよ。ただーー」
「ただ?」
「何か理由があるんだろう。私たちにはわからない理由が」
「そりゃ……そうかもしれませんけど」
室長の言葉を聞いて、俺は奇妙な感覚に襲われた。何か、怒りのようなものを感じたのだ。
室長はそんな毒にも薬にもならない言葉で、この話を終わりにする気なのだろうか。
そして、そんな風に考えている自分に少し驚いた。別に、いいじゃねえかそれで。病院まで呼び出されようが、目の前で泣かれようが、これはあくまでビジネスの関係だ。わざわざ面倒くさい話に首を突っ込む必要はない。以前の俺なら、そう考えて終わりだっただろう。
「まあ、とりあえず行ってみようよ」
「……は?」
所長はそう言って、帰り際に社長からもらった名刺を取り出した。それをまるで太陽に透かすように掲げ、ブツブツと何かを言っている。
「ねえ君、地図読めるタイプ? この住所、ここから近いのかなあ」
「え……今から行くんですか。中澤工業に?」
俺の言葉を無視して、室長は道を走るタクシーに向かって手を上げた。
◆
病院の近くで拾ったタクシーで、環七通りを新川方面へと進む。緩やかな高架を登り、カーブしながら降りた先の信号を左折すると、下町感が一気に強くなった。
一言で言えば「住宅地」なのだろうが、低層のアパートや古びた平屋などの合間に、個人経営の畳店、院の字が旧字体で書かれた個人病院、軒先でコロッケを販売している肉屋などがある。生活に必要なものが、ゴチャッとひとまとめになっているような、そんな雰囲気だ。
中澤工業はそんな下町の一角にあった。
ケヤキ並木に沿った小砂利敷きの空き地。その片隅にサビの浮いた看板があり、「中澤工業」と社名がある。その下には「ジムショムコウ」と、どこか戦時中を思わせる独特のカタカナフォントで書かれた案内がある。運転手は勝手知ったる様子で砂利の空き地に車両を乗り入れると、ぐるりとUターンするようにして停車する。
「着いたよ」
「運転手さん、この会社知ってます?」
金を用意しながら室長が聞くが、運転席より工事現場が似合いそうな無愛想な運転手は、面倒くさそうに首を振った。
「こんな工場はいっぱいあるんでね。いちいち知っちゃないですわ」
領収書を受け取って、車外に出る。タクシーはすぐにいま来た道を戻っていった。きっと葛西駅に戻るのだろう。
自分の足で砂利敷きの地面に降りると、なんとなく息苦しさを覚えた。4月の割に最近は気温が高く、鋭い日光に焼かれた地面から、愚痴のような熱気がのぼってくる。地域柄なのか、工場というイメージからなのか、空気が埃っぽい気がして、俺は思わず口元に手をやって咳払いをする。
「いいねえ、この感じ。嫌いじゃないなあ」
俺と違い、室長は妙に嬉しそうな顔で言うと、歩き始める。
「ジムショムコウ」の横にある矢印の先、十五メートルほど奥まった場所に、中澤工業の社屋があった。カビのような黒い汚れが浮き出たブロック塀、その向こうに公民館のようにも見える小ぢんまりとした平屋建てが見える。そしてそのさらに向こうに、アパート3階建てくらいの高さの四角い建物がある。こちらはそれなりの大きさだ。見た感じからすると、例の検査機器の部品を作る製造工場なのだろう。
病院で会った社長の話からすると、中澤工業は小規模な会社だ。中小企業というより、零細企業と言ったほうがいいかもしれない。確か社員が3人、事務員が2人、それからベトナムからの研修生たち。研修生の人数が不明だが、こういうケースの場合、多くても5人程度だろう。つまり社長を入れて10人程度の組織ということになる。
歩きにくい砂利敷きの空き地を進みながら、おいおい、と思う。営業三部じゃあるまいし、なぜ俺がこんな小さな、こんな寂れた雰囲気の会社に来なきゃならない。営業一部が担当するのは、社員が1000人2000人いるのが当たり前の大企業だ。1万人以上の組織も珍しくない。いったいこの案件で、室長はいくらの契約を取るつもりなのだろうか。組織規模で考えれば10万から20万がやっと、取れても1ヶ月掲載で50〜60万が限度だろう。
あるいは、と思う。見た目も含めて同期の島田に似た室長だ。もしかしたらあいつのように、しがない町工場から何百万もの契約を勝ち取るつもりなのかもしれない。
なんとなく横目で室長の顔を伺うが、何が嬉しいのか、子供のように目を輝かせながらキョロキョロしている。この人に営業などできるのだろうか。
俺の視線に気づいた室長が、「ん? どしたの」と聞いてくる。
「いや、なんか嬉しそうだなーと思って」
「いやね、僕、こういう雰囲気好きなんだよねえ。ピカピカのオフィスなんかより、ずっと味があると思わない?」
室長の言う通り、間近に見た事務所は確かに「味のある」ものだった。びっくりするくらい、くたびれている。戦争映画とかで見る住宅セットの方がいくらかモダンに見えるほどだ。古いせいか緑色っぽくなったガラス窓に、白く「中澤工業」の文字が吹き付けられている。ものものしい明朝体の文字。古い不動産屋みたいだと思う。なんとなく恐ろしいというか、ヤクザの事務所みたいな雰囲気がある。太陽光が反射して中の様子はよく見えないが、それがまた怖い。
そんな俺の考えを知ってか知らずか、「ごめんくださーい」と室長が元気に扉を開け、中に入っていく。
室長の後に続いて中に入ると、日光が遮られて視界が一気に暗くなった。一瞬、失明したように周囲が黒く塗りつぶされ、じんわりと少しずつ色を取り戻していく。
中はやはり、古い不動産屋のような雰囲気だった。年季の入った黒い革ソファ、ローテーブルの上にはレース編みの白いクロスがかけられ、これまためっきり見なくなったガラス製の灰皿がドンと置かれている。他、昔ながらの灰色デスクが10セットほどあるが、パソコンが置かれているのはそのうちの2つだけだった。まるで、昭和時代の映画の中にタイムスリップしたような感覚。
「あ、お客さん」
デスクの1つに座って何か書きものをしていた30代後半くらいの女性が顔を上げ、言った。それを聞いて、壁にかけられたカレンダーの前にいた背の低い女性ーーこちらは60代くらいーーが振り返り、「あら」と微笑むと、小走りにこちらにかけてくる。
「いらっしゃいませ。何かお約束でしたでしょうか」
微かに怪訝そうな表情を浮かべつつ、上品な口調で言う。ゆったりとして、柔らかな雰囲気だ。頭は白くなりかけて、着ている制服は古めかしいが、何十年もそのスタイルでやってきたというような説得力がある。
「突然すみません。わたくし、こういう者です」
室長が名刺を掲げるように差し出し、深々と頭を下げる。もはや見慣れた風景だ。普通の人間なら奇妙に思うだろうそんな行動に、その女性は一瞬不思議そうな顔をしたものの、すぐに愉快そうに笑った。
「あら、これはご丁寧に」
女性が名刺を受け取ると、室長は顔を上げ、続けた。
「先ほど、社長とお会いしてきました。我々、求人広告をやっておりまして」
求人、という言葉が出た時、女性の顔に安堵とも警戒とも取れる不思議な表情が浮かんだ。「ああ……求人の」そう言って室長の名刺に目を落とす。
「ええ、そうなんです。それで少し、現場の方を取材させていただけないかとやってきた次第で。あの……失礼ですが……」
「あら、ごめんなさい。私、中澤の妻です」
「ああ、やっぱり」
室長は大きく頷いて、それから口元に手を当てて、「あの……ご事情の方は?」と小声で聞く。
室長の言葉に、婦人はやはり、不思議な表情をしたまま、「ええ、わかっております」と頷く。悲しげな笑顔、とでも言えばいいだろうか。中澤婦人はちらりと後ろを振り向くようにして、それから首を傾げるようにして言った。
「ただ、私たちも困ってしまっていて……どうしたものかしらって、考えてはいるんですけど」
「ええ、ええ。そうでしょうなあ」
立ち話もなんですから、と婦人が応接スペースのソファを勧めてくれ、俺たちはそれに甘えた。お茶、入れますから。婦人は微笑んで頭を下げ、事務所の奥に下がっていく。
「キレイな事務所だなあ」
隣に座った室長がポツリと言い、俺は思わずその顔を覗き込む。キレイ? 何を言ってるんだ。見るからにくたびれたボロボロの事務所じゃないか。どこがキレイなんだ。
「ほら、物は年季が入っているが、ピカピカだ。毎日丁寧に掃除されてる証拠だよ」
「……」
そう言われてあらためて事務所内を見回すと、確かに古びた事務所には違いないが、室長の言う通り、不潔な感じはまったくない。むしろ、このソファにしろテーブルにしろ、受付のカウンターにしろ、整理整頓が行き届いており、清潔だ。
「古いこととキレイなことは、矛盾しない。逆に、新しいからと言ってキレイだとも限らない。人間も同じだけどね」
なんとなくいいことを言っているような気もするが、常に呑気な室長から言われてもピンとこない。
「はあ……そういうもんですかね」
「あ、すごいぞ、ジョーダンだよ、ジョーダン」
室長は突然興奮したように言って立ち上がり、入り口からは角度的に見えなかった奥の壁を指差す。
「冗談? なんですか」
その指の示す方を見るが、そこにはバスケットボール選手らしい黒人のポスターが貼ってあるだけだった。
「だから、ジョーダンだよ、ジョーダン。マイケル・ジョーダンって、バスケの神様さ。うわあ、懐かしいなあ」
ああ、何となく聞いたことがある。服のブランドだと思っていたが、そうか、ジョーダンという選手がいたのか。それにしても、島田にそっくりな体型のこの室長から、スポーツ選手の名前が出てくると変な感じがする。
「……好きなんですか、バスケ」
「うん、好き好き。今でもよくやるし」
は? 今でもよくやるって、その体型で? 思わず笑いそうになったが、初めてHR特別室に行った時、ソファに横になっていた室長がすごいバネで立ち上がったのを俺は思い出した。まあ、そんなことはどうでもいい。
「あれ、ちょっと待って、あれサイン入りなんじゃ……」
室長は立ち上がるだけでは済まず、ふらふらとそのポスターの方に近づいていった。
ああもう、とそれを止めようと俺も椅子から腰を浮かせかけた時、ポスターのある壁のすぐ横の扉が、勢いよく開けられた。
そこに立っていたのはーー
巨大な体をした男。俺は目の前が暗くなるのを感じた。
間違えるはずもない。ほんの数十分前に病室で会ったあの男だ。社長が「辞めさせたい」といっていた、あの社員。
俺たちを見つけた男は、一瞬驚いた顔をしたが、すぐに状況を理解したのだろう。今にも爆発しそうな表情をして大股で近づいてくる。その勢いに俺は、尻もちをつくようにソファに押し戻されてしまった。だが室長は反対に、躊躇なく男に向かっていくではないか。
「ああ、これはこれは!」
迷いなく向かってくる室長にさすがの男も立ち止まり、事務所中央あたりで二人は対峙することになった。社員の男より室長は頭一つ分背が小さい。
「どうも、先ほどは!」
快活に言う室長を、男はどこか不気味そうに見下ろし、それでもドスの効いた声で言った。
「こんな所まで来て、どういうつもりだ」
そうだ。この男はさっき、激怒して病室を出ていった。その原因となった人間が会社にまで押しかけてきたとなれば、さらに怒りは大きくなるに違いない。室長が勝手にタクシーを停めてしまったせいもあるが、病室で会ったせいか、この男がここにいるというイメージはなかった。だが、考えてみれば、社長の見舞いを終えた社員は会社に戻るのだ。
だが室長は、ひるまない。
「いやあ、もう少し御社のことを知りたいなと思いまして」
「はっ、俺たちは知ってもらいたかなんてねえよ。いいから帰れ!」
「嫌ですよ、せっかく来たのに」
「誰も呼んでなんてねえんだよ!」
男と室長が言い争っていると、事務員が呼びに行ったのだろう、奥から婦人が顔を出し、驚いた表情で駆け寄ってきた。
「ちょ、ちょっとタカちゃん、何やってるの」
男はチッと舌打ちをすると、自分の胸の高さにある室長の顔を太い指で指し示す。
「こいつら、求人の業者なんだぜ。さっき病院にまで押しかけてきて……」
「知ってるわよ。だって、あの人が呼んだんでしょう?」
「うるせえ! ウチは人は足りてんだ。新人なんて必要ねえんだよ!」
喚く男を困ったように見つめた婦人は、小さく溜息をつくと、室長と男との間に入るように一歩前に出た。
「取材、をするんですよね。私たちはどうご協力すればいいかしら」
「こ、こら! 相手にすんじゃねえよ!」
男はさらに喚くが、婦人は肩越しに振り返り「あなたはちょっと、静かにしてて」とピシャリと言う。
「おい、おっかさん。いいから俺の言う通りにーー」
「……おっかさん?」
室長がきょとんとした顔で聞き返す。
「う、うるせえな。とにかくいい加減にしねえと警察を呼ぶぞ!」
「タカちゃん、いい加減になさい」
婦人が再度言うと、男は不満げに、だが黙った。それを見た婦人はあらためて俺たちに向き直り、「ごめんなさいね」と頭を下げる。
「ほんと口が悪いんだから……でもね、こう見えて本当は優しい子なんですよ。職場でも頼りにされててね」
「ええ、社長もそう仰っておりました」
室長が言うと、男は一瞬驚いた顔をして、それから居心地悪そうにぷいっと視線を逸した。
「それで、どういたしましょうか」
「そうですね、もしよろしければ、彼に職場を案内してもらえないかと」
「え……タカちゃんに」
婦人が驚いて答える。
「ええ、タカちゃんに」
室長がニコニコしながら頷いた。
◆
「高本さんで、タカちゃん、なんですねえ」
事務所の裏口を出て、工場へと移動しながら室長が言った。その手には先ほど男から半ば無理やり奪い取った名刺がある。ひとしきり眺めたあと室長はそれを俺に渡した。そこには、中澤婦人が「タカちゃん」と呼ぶこの大男の名、高本邦夫という名が書かれてあった。
「チッ、うるせえな。タカちゃんって言うな」
婦人に職場の案内を命じられたタカちゃん、いや、高本は、口では小言を言いつつも、俺たちを工場へと連れて行くこと自体には素直に従うつもりらしい。
「いろいろ触んじゃねえぞ。素人なんだからよ」
高本はそう言って、事務所と工場とをつなぐ通路に置かれたダンボールや散らかった靴を、率先して片付けていく。そのテキパキした動作、それらが俺たちの邪魔になるかもしれないという気遣い、何より、あれほど俺たちに敵意を示していたのに、婦人の指示にはおとなしく従う様子を見て、意外に思う。
通路はほんの五メートルほどしかない。小学校の頃、校舎と体育館をつなぐのがこんな通路だったなと思いつつ、事務所の背後にすり寄るように建つ工場に俺たちは入っていく。
そこは一種異様な空間だった。
外から見て3階建てほどの高さがあったが、中はワンフロアの吹き抜けで、天井は高いが開放感はない。所狭しと機材が並び、忙しく稼働している。音は思ったほど大きくはないが、それでも、それなりに声を張らねば会話できないほどにはうるさい。さらに、電灯が少ないのか節電なのか全体的に薄暗く、油とカビ臭さが混じったような独特のにおいもあって、どこか息苦しい感じがする。
「で? 一体何を知りたいんだよ」
高本はそう言いながら振り返ると、面倒くさそうに首をバキバキと鳴らしてみせた。作業着ではあるが、その姿はまるでプロレスラーだ。薄暗い工場で見るとさらに迫力がある。その体の向こうには、暗がりの中で動く人間の影が見え隠れしている。
「ここでは電気検査をする機械の、部品を作っていると聞きました。ここにある機械で作るんですね」
室長の言葉にあらためて室内を見回す。かなり年季の入った風の機械も多い。いろいろな所に、ペンでメモ書きされたカラーテープが貼ってあったりする。
「そうだ。そのための工場だからな」
「人間の手じゃ、作れないんですか。それとも便利だから機械でやるんですか」
室長の言葉に、高本はヘッと鼻で笑う。
「太さ1ミリ以下の部品だぞ。人間の指がどれだけ太いと思ってやがる」
「ふむ」
「機械で切って、機械で形を整えて、機械で研磨する。機械じゃなきゃできねえよ」
ふーむ、と数秒間考えた室長は、「でも」と続ける。
「全部機械でやるのなら、あなたがた社員さんは何をするんです? いなくたっていいんじゃないですか」
あまりにシンプルかつ失礼な問いだったが、意外と本質をついている気もした。実際、ここから見る限り、人間より機械の数の方がずっと多い。
「ね? そうでしょう。全部機械がやるのなら、別に人間はいりませんよ」
「俺たちは、部品を作る機械を作るんだよ」
高本から漏れた聞きなれない言葉に、一瞬頭が混乱したようになる。部品を作る機械を作る? 室長もすぐに反応した。
「ほう……おもしろい表現ですね。部品を作る機械を作る。つまり、作るものそれ自体を作ると」
「そうだ。俺たちは製造機械を作る仕事をしてる」
そう言われた室長は、一番近くにあった機械に近づき、その横腹にプリントされたロゴマークを指差す。
「でも、タカちゃん」
「タカちゃんって言うな! ……高本だ」
「もう、名前なんて別にいいじゃないですか。まあいいや、じゃあ高本さん、機械にはこうやってブランドロゴがついてますよね。向こうのも、ほら、あっちのにもついてる。つまり、この機械自体を作ってるメーカーがあるわけだ」
高本はチッと舌打ちをして、「それがなんだよ」と声を不機嫌そうに言う。
「だってさっきあなた、機械を作るのが仕事だって仰いましたよ。あれ、嘘なんですか」
「嘘じゃねえよ!」
見ていてハラハラする。室長の質問はあまりにストレートだ。確かに俺も、「機械を作る」ということがよくわかっていなかったが、だからといって嘘つき呼ばわりするなんて。まるで、思ったことをそのまま口にする子どもみたいじゃないか。
高本はイライラした様子で、「だから……」と頭をゴシゴシと掻く。どう説明すればいいのかを考えている様子だ。
「あんたの言う通り、ベースとなる機械自体はメーカーから買うさ。だがな、当たり前だが、工場によって環境は違うよな。作るスピードも、作る量も、あるいは作る物自体もバラバラだ。ここまではわかるか」
「ええ、わかります。ネジと一言で言っても、太いものもあれば細いものもある。そういうことですよね」
「ああ。だから、自分たちの工場に合わせて、細かく調整していかなきゃならないんだよ。メーカーから買ったそのままの状態で使えることなんて滅多にない」
「ははあ、なるほど。その調整作業をあたなは、機械を作る、と表現した。具体的にどういうことをするんです?」
「そんなのいろいろだ。ネジを締め具合を変えたり、部品を付け替えたり」
「なるほど」
「ハードだけじゃない。ソフトの調整も重要だ」
「ソフト?」
「プログラムだよ。機械に対する命令だ。自分たちの思い通りに動いてもらうには、内容に合わせてプログラムも書き換えていかなきゃならない」
「はああ、なるほどなるほど。……でも、ハードにしろソフトにしろ、それはメーカーさんにお願いすればいいんじゃないですか? 最初からこういう部品をつけといてください、こういうプログラムをつけた状態で売ってくださいって」
高本は首を振る。
「日本の機械メーカーはそういう調整はあまり好まない。販売先の要望にひとつひとつ応えてたら大変だからな」
「ふーむ。そういう苦労が、こういったテープなんかに現れているわけですか」
室長は機械に貼られたカラーテープの一つを指差す。高本はチッと舌打ちし「まあな」と答える。素人がわかった口を利くな、とでも思っているのだろう。ただでさえ俺たちの印象は悪い。
「でも、じゃあ、その調整作業が終わったら、いよいよ人間は必要ないんじゃないですか? 後は機械に任せて、お茶でも飲んでたらいいじゃないですか」
ああ……どうしてそういう言い方を……。俺が何を言う間もなく、高本は「んなわけねえだろ!」と声を荒げる。
「おや、なぜです?」
一方の室長は涼しい口調で聞き返す。高本も室長のことがだんだんとわかってきたのだろう、怒りというより呆れた表情を浮かべ、「だから……」とこめかみを掻く。
「だから……不具合が起きることだってあるし、だいたい機械につけてる加工部品は摩耗するんだ。何時間かごとに交換しなきゃいけない。作る部品が変われば、機械のセッティングだって変わる。直接的な処理をするのが機械とそのプログラムだというだけで、製造工程の全体を管理してるのは俺たち人間だ」
「はああ、なるほど。勉強になります」
室長はそう言って、大げさに頷く。だがすぐに別の方向を向き、「あ、あそこに何人かいますね」とズカズカ進んでいく。慌ててついて行くと、確かにそこには5名ほどの人が並んで作業をしていた。よく見れば全員が外国人である。
「彼らは何をしているんです?」
「分別だよ」
「何と何を分別するんですか」
「簡単に言えば、不良品をより分けてる。0.1mmみたいな細さの部品だと、どうしたって不良品が出るからな」
「そうなんですか? 日本の製造業は不良品ゼロにこだわると思ってましたが」
「そりゃ、納品段階じゃそれが当然だ。だが、製造段階で不良品ゼロというのは言うほど簡単じゃない。そもそもウチの場合、作ってるものが小さすぎるんだ。0.3mmくらいまでは何とかなるが、0.1mmになればもう肉眼じゃ何も見えねえ。ああやって顕微鏡で見ながら1つ1つをチェックしないと、どういう傷がついてるかもわからない」
「彼ら、日本人じゃないですよね」
「ああ。ベトナムから来てる。皆、真面目でいい子だ」
どこか誇らしげなその口調に、思わず高本の顔を伺った。初めて見る、嬉しそうな表情。自慢の部下たち、ということなのか。
「なんでまた、ベトナムの人を?」
ベトナム人が働いていることは、病院で社長からも聞いた。そして高本は社長と同じようなことを答える。
「……日本で技術を学んで、ベトナムに戻ってそれを活かして働くってプロジェクトがあるんだよ」
「ああ、なるほど」
「オヤジがそれに協力してるもんだから」
「……オヤジ?」
室長が聞き返すと、高本はハッとしてこちらを向き、それから眉間にしわを寄せ、言い訳のようにチッと舌打ちする。
「だから、社長だよ、社長」
高本は社長のことをオヤジと呼ぶらしい。そういえばさっきは、奥さんのことを「おっかさん」と呼んでいた。これだけ小規模な会社だと、社員もこれほど家族的な関係になるのだろうか。
だが、それにしてもオヤジ、おっかさんというのはすごい。改めて考えてみれば、高本の社長や社長婦人とのやりとりは、雇い主と社員というより、親子のようでもあった。一瞬、本当の親子の可能性を考えたが、あり得ないとすぐに思う。あの夫婦からこんな大男が生まれるはずもないし、顔立ちも全然違う。そもそも中澤と高本とで名字も別だ。
だが、それにしても。
本当の親子でないにしろ、高本という男がこの会社の中枢にいる人間なのは間違いのないことのように思えた。社長が高本を「中澤工業の芯」と呼ぶのもわかる。
だが、だからこそ、疑問は大きくなった。
ーーなぜ社長は、それほど高本の「退職」にこだわるのか。
◆
そこから十分ほどかけて俺たちは工場内を回った。室長は相変わらず質問を連発していたが、高本の方は明らかに口数が少なくなり、同じような返答を繰り返すばかりになった。
工場を一周りして入り口まで戻ってくると「ほら、もういいだろ」と高本が言う。
俺たちはまるで生け簀の魚のように高本の巨体で工場を追い立てられ、事務所との間の通路に出た。
「ほら、グズグズすんな。事務所に戻れ」
だが室長は立ち止まり、くるりと振り返って、とんでもないことを言った。
「仮にあなたが辞めるとした場合、どういう人が必要ですか」
高本の顔が一瞬で凍りついた。
「なに?」
「だから……あなたが辞めた後にですね」
信じられないという驚きの表情が、ゆっくりと怒りに変わっていく。
「……辞めねえって言ってるだろ」
「ええ。ですから、仮に、ですよ。どういう人ならここで活躍できるんですか」
室長の言葉に高本はまた舌打ちをする。だが、もう声を荒げることはしなかった。この変人につっかかっても意味がないと理解したのだろう。
「別に……特別必要な知識なんてねえよ」
「もうちょっと詳しく教えて下さいよ。あなたがこの仕事に一番詳しいと言うから、こうして案内を頼んでいるわけで」
高本は自分を抑えるため、というような大きなため息を漏らすと、「だから……」と続ける。
「だから……別に何か経験がなくたっていいっつってんだ。工業高校卒なら御の字さ。だいたい俺だって、完全な未経験から始めたんだ」
「ふむ。じゃ、労働環境はどうなんです? 最近じゃブラック企業撲滅! なんて動きも盛んですけど。御社はブラック企業なんですか?」
思わず俺は吹き出してしまった。御社はブラック企業なのか、などと正面から聞く営業がどこにいる。そんな俺を高本が忌々しげに睨む。俺は「あ、すみません」と咄嗟に言ってごまかしの咳払いをする。室長は俺たちのやりとりを意に介することもなく答えを促す。
「残業時間とか、月平均で言うとどれくらいんなんでしょう。休憩の取り方とか、有給はちゃんと取れるのかとか……」
高本はまた溜息を漏らし、呟くように言った。
「……そういう目線でしか見れねえやつは伸びねえよ」
「ん? どういうことです?」
「だから……本人の視点がどこにあるかで、印象は全然違うってことだ」
「ちょっとわかりませんね。説明してもらえませんか」
「……例えば俺だって、入社した頃は全然うまくいかなくて、結果、徹夜して仕上げるなんてことはザラだったよ。それをブラックって言うならブラックだろ。……でも別に不満なんてなかったね」
「ほう、そりゃなぜです」
「自分の意志でそうしていたからさ。できない自分が許せなくて、だから、勝手に頑張ったんだ。残業だって休日出勤だって、別に誰かに強制されたわけじゃない」
「なるほど。……でも、仮に意思があったって、長い残業や休日出勤が嬉しい人なんていないでしょう。どうして乗り越えることができたんです?」
室長の質問に、高本どこか遠くを見るような、何かを思い出すような顔で、視線を上げる。
「俺だけじゃなかったからな。俺が徹夜する時は、皆がつきあってくれた。……オヤジだって、若くねえのに、作業服着て、頭にタオル巻いてよ。皆で顔を突き合わせて、ああでもないこうでもないって、何十回、何百回って失敗して……」
「……」
「でも頑張ってやり続けて、ついに成功して……抱き合って喜んで、それで外に出てみたらもう次の日の朝だったりするんだよ。……これがブラック企業か? 夢中すぎて誰も朝になってたことなんて知らなくて、おいもう朝じゃねえかって揃って大笑いして……それで事務所に戻ったら、髪の毛ボサボサのおっかさんがウトウトしながらオニギリ握ってたりな。……わかるか、俺たちはそうやってこの会社を作ってきたんだ」
いつの間にか高本は室長を見ていた。まっすぐに。
「だから……いいか、適当なこと言ってオヤジらを騙すようなことをしたら……俺が許さねえ。わかったかよ」
室長はその覚悟のこもった目をまっすぐ受け止め、頷いた。
「ええ、よくわかりました」
◆
工場を出て事務所の扉を開けた時、どこからかチャイムの音が聞こえてきた。腕時計を見ると、昼の12時だ。
「さあ、もう帰れ。俺たちも昼休憩だ」
ふと見れば、事務所には事務員1人だけしかいなかった。中澤婦人の姿がない。
物音がしたので目を遣ると、勝手口の脇にある部屋から婦人がひょいと顔を出して、嬉しそうに微笑みながら、こっちこっち、と手招きする。
高本には帰れと言われたが……と迷っていると、室長が迷いのない足取りでその部屋へと近づいていく。
……ああもう、この人は。
「おや、こりゃすごい」
突き当りの部屋を覗き込んだ室長が言った。俺も慌てて後を追い、室長の丸い肩越しに中を覗く。
「あっ」
思わず声が出た。そこは食堂だった。20畳ほどの空間に、いくつかのテーブルセットが置いてある。今更ながら、あたりにうまそうなにおいが漂っていることに気付く。
「さあ、あなたたちも食べていって」
声がした方を見ると、壁庭に作られたキッチン設備のところに、割烹着を着た婦人の姿が見えた。コンロを前に、小さな体を前後に揺らしながら重そうな中華鍋を振っている。
食べていって、というのは、俺と室長に投げられた言葉なのだろうか。だとしたら面倒なことになった。高本がいい反応をするとは思えない。
「いいんですか、いや、嬉しいなあ」
室長はそう言って迷いなく部屋の中に入っていく。
背後に嫌な視線を感じて振り返れば、やはりだ、高本が恐ろしい形相で迫ってきていた。……ああ、ほら、帰れって言うのに室長が従わねえから……
だが、高本は俺や室長を押しのけるようにして食堂内に入ると、「こら、ダメじゃねえか」と婦人に向かって声を荒げたのだった。
高本はそのままコンロの前まで行くと、婦人の手から中華鍋を奪い取った。
「これは使うなって言っただろ。また腰いわすぞ」
言われた婦人はちょっと不満げに口をとがらせる。
「だって、こっちの方が美味しくできるんだもの」
高本はチッと舌打ちし、「ああもう、わかったよ。じゃあこれは俺がやるから」とそのまま鍋を振り始める。覚えがあるのか、その巨体がそう見せるのか、なかなか様になっている。それを見た婦人は嬉しそうに微笑むと、「ありがと。じゃあ私はごはんやるわね」と高本の背中をポンと叩き、炊飯器の方に移動する。古びた旅館にありそうな、大きな炊飯器だ。婦人が「よいしょっ」と勢いをつけて蓋をあけると、中からうまそうな湯気が立ち上る。
その時、後ろがにわかに騒がしくなった。振り返って見れば、工場にいたベトナム人たちだ。俺たちの前をペコペコ頭を下げながら通っていった彼らは、そのまま椅子につくのではなくなぜか中澤婦人の周りを取り囲んだ。
「オッカサン、すわってて」
「ボクタチ、やるから」
拙い日本語で口々に言うと、一人が中澤婦人の手からしゃもじをそっと取り、別の一人が小さな婦人を肩を優しく押すようにして近くの椅子に座らせる。
「ああ、もう、いいのよ。私がやるわよ」
婦人はまた不満げに言うが、ベトナム人たちは「ダメ、ダメ」と笑って取り合わない。
「オッカサン、休んで」
その様子を見ていた俺たちと目が合うと、婦人は照れたように笑った。
「もう、優しい子ばかりで」
室長が頷き「違いないですな」と同意する。
「さ、お座りください。皆で食べましょ」
◆
高本以外の社員2名と、さっきの若い事務員も加わり、食堂は騒がしくなった。
結局俺たちは誘いに甘えることになり、婦人の向かい側に座らせてもらう。ベトナム人含め、皆がテキパキと仕事をこなし、俺と室長の前にもあっという間に料理が用意された。回鍋肉、味噌汁、生卵と漬物、そして大盛りのご飯。立ち上るうまそうなにおいに思わず腹が鳴る。
「よし、揃ったな。じゃ、いただきます」
食堂内を見渡していた高本が大きな声で言い、ベトナム人たち含めその場にいる皆が「いただきます」と声を揃えた。俺も慌てて手を合わせ、いただきます、と頭を下げる。ふと隣を見れば、室長は既にニコニコしながら食べ始めている。俺も箸を取り上げ、高本が仕上げた回鍋肉を口に運ぶ。
うまい。
素朴だがめちゃくちゃうまい。
思わず無言でがっついた。それを向かい側の婦人が嬉しそうに見ている。
「おいしいでしょう?」
「え……あ、はい。すごく」
「あの鍋だとね、本当においしくできるのよ。重いから、ちょっと大変なんだけど」
先ほどのやりとりを思い出し、横目で高本の姿を探した。斜め前のテーブル、日本人の社員たちと楽しそうに笑いながら食べている。
「オッカサン、おいしい」
「ゲンキ、いっぱい」
ベトナム人たちがクスクス笑いながら婦人に声をかける。そのたびに婦人は「よかったわ」とか「おかわりしてね」と嬉しそうに返す。俺たちがいるからそうしている、という感じではなかった。恐らくここでは毎日のように、こんな風景が流れているのだろう。
「いやあ、いい雰囲気ですなあ」
室長が言うと、婦人はその笑顔を一層深くして、「そうでしょう?」と目尻を下げる。
「ええ、とても。それに皆、”オッカサン”が大好きなんですなあ」
「あら」
婦人はいよいよ嬉しそうに微笑み、周囲を見回す。
「私、機械オンチでねえ。だから工場のことは全くお手伝いできないんです。だから、せめてこういうことくらいは、って思ってるのに、それさえも皆がやってくれちゃうから」
「オッカサン、つかれてる」
「ボクたち、ゲンキだから」
隣のテーブルのベトナム人が声をかけてくる。すると隣のテーブルの高本も「そうだぜ」と続ける。
「おっかさんにまで倒れられたら、皆、仕事どころじゃねえからな」
「ね、優しいのよ」
婦人がいたずらっぽく言い、笑う。
食事も終わりかけた頃、「求人の件は、お聞きですか」と室長が切り出した。
斜め後ろのテーブルで、高本がピクリとしたのが見える。
「ええ、タカちゃんはもう、ご実家に帰らないといけないから」
それまでのいい雰囲気が、ピリッとした空気に包まれる。社員たちやベトナムの研修生たちも何となく事情はわかっているのか、どこか気まずそうにうつむいて、黙ってしまった。
「だから、あなたたちに来てもらったの。タカちゃんが安心してここを離れられるようにね」
それを聞いた高本が、これまでで一番大きな舌打ちをした。
そして、バン、と箸をテーブルに叩きつけ立ち上がる。
「だから、辞めねえって言ってるだろ!」
皆がしんとする中、体の大きな高本は1人、大股に俺たちの横を通り過ぎ、部屋から出ていった。
あれ……
俺はその時、小さな違和感を覚えた。その顔に浮かんでいたのが、怒りではないように思えたからだ。
あれは、そう、あれは……
食事が終わり、皆が出ていった後、俺たちはあらためて婦人と向かい合った。ベトナム人の1人が入れてくれた緑茶。婦人は湯呑みに手を伸ばし、上品な手つきで、口元に運ぶ。
「ごめんなさいね。失礼な態度で」
そう言いつつ、夫人の顔には穏やかな笑みが浮かんでいる。まるで何かを懐かしむように目を細め、ゆっくりと茶を飲んだ。
「彼は、いつから?」
室長がやんわりと聞く。ここに初めて来てまだ数時間なのに、婦人とは長年の茶飲み友達のように見える。なんとなく邪魔してはいけないような気がして、俺は視線を落とし、黙る。
「そうね、9年と3ヶ月になります」
即答する婦人に、思わず目を上げた。室長もまた、湯呑みに伸ばしかけた手を止め、婦人を見つめる。
「ずいぶん具体的ですね。覚えてるんですか?」
室長の言葉に、婦人の笑みに悲しげな影が差した。
「ええ、忘れもしません。あの子が来てくれたのは、息子が亡くなってすぐのことだったから」
衝撃を受けた。
息子が亡くなった。
こんなにも明るくて穏やかな婦人から出た言葉とは思えなかった。
「そうでしたか……息子さんが」
室長の言葉に驚きの色はなかった。それまで通りの口調で言い、ズズッと音を立てて茶を飲む。それに促されるように婦人も湯呑みを口に運び、呼吸とほぼ変わらない小さな溜息をつくと、話を続けた。
「交通事故でした。大学を卒業して、一度は別の企業に就職したんですが、やっとうちに戻ってきてくれて、3ヶ月くらい経った頃。だいぶ仕事も覚えてこれからというところだったんだけど」
「そうでしたか……」
「あの日……息子が亡くなった日、病院に一番に飛んで来てくれたのがタカちゃんでした。あの子は息子の小学校からの親友でね。うちにもよく遊びに来てました。夜の待合で呆然としてる私と主人に駆け寄って、泣きながら頭を下げるんですよ」
「……そりゃまた、どうして」
「俺のせいだ、あいつが死んだのは俺のせいだ、なんて言うもんだから、私たちもわけが分からなくてね。タカちゃんも泣きじゃくってて、何を言っているかわからなくて」
婦人はそう言って、悲しげな顔でふふ、と笑い声を漏らす。
「何とか落ち着かせて話を聞いてみたら……どうやら事故の前日、息子と会ってたらしいんです。タカちゃんが息子を誘ってね。タカちゃん、仕事のことでいろいろ悩んでたみたいで、息子に相談したかったんだって。うちの子、あんまりお酒は得意じゃないんだけど、タカちゃんが塞ぎ込んでいるもんだから、つきあうつもりだったんでしょう、珍しくたくさん飲んだらしいの」
「なるほど」
「タカちゃんも、いろいろ溜め込んでいたんでしょうね。ずいぶん遅くまで話し込んだみたい。それで、別れて、次の日の事故でしょう。責任を感じていたみたいなのね」
「そうだったんですか」
「でも、そんなわけないでしょう? だいたい、その事故はね、トラックの居眠り運転が原因なのよ。大きなトラックが、息子の走ってる反対車線に急に飛び出してきて、正面衝突した。だから、当たり前だけど、タカちゃんのせいじゃないの」
婦人はそう言って何度か頷いた。まるで、ここにいない高本に向かってそうするように。
「何度もそう言ったわ。あなたのせいなんかじゃない。それどころか、きっと息子は、あなたがいてくれたおかげでとても救われたはずだって。……うちの子、繊細な子でね。小さな頃からなかなか友達もできなくて。中学時代には、ちょっとしたイジメも……。それを救ってくれたのがタカちゃんなのよ。タカちゃんと仲良くなってからは、息子も随分明るくなって……だから、そんな風に言わないでって、あなたのせいなんかじゃないって」
沈黙が降りる。遠くから、機械が動く音だろうか、微かな振動音が聞こえる。
室長は再び茶に手を伸ばし、ゆっくりとした動作で飲んでから、噛みしめるように言った。
「でも、彼は納得しなかった」
「その通り」
婦人は視線を落としたまま、微笑む。
「あの子、次の日には会社を辞めてきちゃった。それで何て言ったと思う? 俺を中澤工業に入れてくれ。俺があいつの分まで働くからって。……もちろん、止めたわよ。バカなことを言ってるんじゃないって、主人も怒りました。タカちゃん、すごくいい企業に務めてたんですよ。聞けば誰でも知ってるような、大きな企業。いいから今すぐ戻って頭を下げろって、辞表を出したけど、ナシにしてくれって頼んでこいって、説得しましたよ。……でも、彼はうんと言わなかった。そこで、あの人は正直に話すことにした」
「正直に?」
「ええ。実はあの頃、うちの会社は大変だったんです。大口の取引先が倒産しちゃって、それで、売上がガクッと減ってしまっていて。息子はわかった上で入社してくれたんだけど。でも、タカちゃんまで巻き込むわけにはいかないでしょう? だから、ダメよって。タカちゃんをそんな泥舟に乗せるわけにはいかないって、もう全部話したわ。でも……」
高本の性格的に、むしろその告白は彼の決心を固める結果になったのだろう。出会って数時間だが、彼を見ていればその時の様子が想像できた。
「何度言ってもタカちゃんは毎日やって来たわ。それで、勝手に工場に行って仕事を覚えるようになったの。当時いた社員さんに、しつこいくらい機械のことを聞いていた。彼、そういう経験は全くなかったから、苦労していたわね。でも、気持ちという意味では、誰よりも強かった。体を壊すからやめなさいって言っても、毎日毎日夜中まで勉強して、部品の試作をして……そんなことをされたら、私たちものんびりしてられないじゃない? 社員たちもなんというか、彼の一生懸命さにほだされちゃってね。皆して頑張るようになってね」
婦人はそう言って、笑った。「彼が、皆を変えちゃったんだ」と室長も笑う。
「そうなの。で、そういう頑張りが功を奏したのかしら、あるメーカーさんが突然やって来て、部品を作ってくれないかって言うわけ。でも、当時の私たちにそれを作る技術はなかったの。求められたのはずっとずっと小さな規格だったから。だからうちの主人は断ろうとした。だって、できないんだもの。作れないものの注文を受けるわけにはいかないわよね。……でも、タカちゃんがね、やろうって。きっとできる、俺がやってみせるって。……それで何ヶ月か後、本当に実現してしまった。それも、今までウチで使っていた機械を改造して、作っちゃったのよ」
「それはすごい」
「それで会社は持ち直した。いろんなところから注文をいただくようになって。そうやってタカちゃんは、自分の努力で、ウチになくてはならない人材に成長していったの」
「なるほど」
「それに……」
婦人はそう言ったが、続きを言うのを躊躇するように視線を落とした。
「それに?」
室長が促す。
「……伝わるかはわからないのだけどね」
「ええ」
「会社にとってだけじゃなくて、そう……あの子はもう、私たち夫婦にとってもなくてはならない子になっていた。……息子が死んで、ぽっかりと空いてしまった私たちの心の穴に、あの子は入ってきた。息子のことを悲しむ間もなく、あの子は私たちの前に現れて、どれだけ出て行けと言っても出ていかなかった。……それからもう9年よ。あの子がどれだけ私と主人の心を助けてくれたか。もうあの子は、私と主人にとって、息子同然の存在なんです」
「……そうですか」
「だからこそ、今回、あの子のお母様のことを聞いた時、ハッとした。私たちがタカちゃんの重荷になってどうするんだって。あの子を息子同様に想っている私たちがそんなじゃ、本末転倒じゃないかって。だって、多分あの子は、お母様と、私たちを天秤にかけなきゃいけないような状況にあるのよ。そんなの、どれだけ苦しいかわかりゃしない」
そして婦人は、姿勢を正すようにして、俺達を見た。
「宇田川さん、村本さん」
「は……」
「あの子、私たちの前ではああだけど、本当は今すぐにお母さんの所に帰りたいと思ってるはずなんです。誰よりも優しい子だから。でも同時に、私たちに対する責任感から、動けずにいる。新しい人が入ってきたら、口ではどういうかわからないけれど、あの子は開放されるはずなんです。だから……ぜひお願いします。何とか、新しい人を見つけてください」
◆
「君ならどうするかね、今回の件」
帰りのタクシーの中で、宇田川室長は言った。その手には、帰り際に婦人から受け取った募集要項がある。横目でそれを覗き込み、俺は絶望的な気分になる。
「どうするって……そんな条件で社員が取れるはずないですよ」
言いながら、息苦しさを覚えた。病院で聞いた社長の話、そして先ほどの婦人の様子に、どうにかしてあげたいという気持ちにはなっていた。だが、気持ちだけではどうしようもないことはある。募集要項に書かれた条件は、都内はおろか、隣の千葉や神奈川に比べても低いと言わざるを得ない水準だったからだ。
「じゃあ、条件の改善をお願いする?」
「……それしかないんじゃないですかね。可能かどうかはわからないですけど」
「ふむ」
そう言ったっきり、室長は黙った。車窓の外をじっと眺めたまま、何も言わない、
俺はあらためて、考えてみた。確かに、1万円でも2万円でも、給与が上げられたらその方がいいのは間違いない。人間、まったく同じ仕事をするなら、月15万円より月20万円の方を選ぶ。お金はどれだけあったって困らない。そんなのは当然だ。
だが、仮に給与が上がったとして、勝負できるのか。同業他社と同水準になったとして、あのような古い工場の機械オペレーターという仕事に、どれだけの人が魅力を感じるだろう。
今は、空前の人手不足。有効求人倍率はバブル期並と言われている時代だ。どの企業も人が採れずに困っている。大手企業ですら人が集まらず、施工管理や設計など資格が必要な仕事も、未経験歓迎で公募するようになった。逆の視点から見れば、求職者はいま、仕事が選べる。無数の求人広告を見比べて、条件のいい所に応募することができる。そんな中で、わざわざ中澤工業を選ぶ求職者がいるとは思えなかった。社長も婦人もいい人だとは思うが、お世辞にもキレイとはいえない環境で、しかも作っているモノも地味だ。
無理だ、と思う。
黙っていると、「まあ、少し考えてみて」と室長が言った。
HR特別室に戻ると、室長は躊躇なくソファに寝転び、スマホをいじり始めてしまった。
いい気なもんだ。答えのない難題、席の一つに座り、とりあえずパソコンを開く、ブラウザで主要な求人メディアを開き、「葛西 機械オペレーター」などと検索してみる。
やはり、給与はそれなりに高い。中澤工業の金額より、最低でも2〜3万円は高いのだ。俺はため息をつく。
だが、先ほど考えたように、仮にこの水準まで高められたとして、中澤工業を選んでくれる求職者は多くない。今はどの会社も、求職者から人気が出るような環境づくりに余念がないからだ。未経験歓迎は当然として、残業なしも当たり前、中にはいきなり時短勤務やフレックス制度を適用される場合もある。
「ダメだ……」
思わず言う。
その時、物音がして、保科が入ってきた、ロン毛を後ろで縛り、お団子にしている、上はジャケットだが、いわゆるフォーマルなそれではなく、馬鹿みたいにオーバーサイズだ。下はいつもの黒いスキニーパンツに、ボロボロのVANS。
「あ、おはようございます」
俺が言うと、「うん」と気のない返事を寄越し、俺の2つとなり、iMacの前にどかっと腰を下ろす。当たり前のようにイヤホンをつけようとするので、「あの、保科さん」と声をかけた。
「なに」
あからさまに嫌な顔をして保科が言う。
「あ……いや」
何をどう聞けばいいのか。だいたいコイツが俺の質問にまともに応えてくれるとも思えない。
「あ、あの、クーティーズ、効果どうなんですか」
咄嗟に言った。室長から見せられたあの原稿。効果が気になっていたのもある。保科はつまらなそうに視線をディスプレイに戻し、「応募10件」とそっけなく応えた。
「え、1日でですか」
聞くまでもない。あの原稿は昨日からの掲載なのだ。だが、飲食店の社員募集で10件はかなりいい滑り出しだ。既に、成功したと言ってもいい結果ではないか。
「よかったですね、すごい」
俺が言うと、保科は、はあ? という顔をして俺を見る。
「何言ってんの」
「え……いや、だって、そんだけ応募来たら万々歳じゃないですか」
そう言うと保科は大きなため息をつく。
「社長もおんなじこと言ってっから、いま店に行って説教してきたんだよ」
「は? 説教?」
「応募数になんて意味はないんだ。数字眺めて満足してる暇があるなら、すぐに10人全員に電話しろって」
「……」
今度こそイヤホンをつけて、音楽を大音量で聞き始めた保科を呆然と見つめる。
頭の中に、先日の保科の言葉が蘇る。
ーー採用ってのは、人間の話だろ?
そうだった、と思う。あの時保科は、採用の打ち合わせなのに金やデータの話ばかりしている俺たちを、そうたしなめたのだ。
◆
「それで、何か思いついた?」
1時間ほど経った頃、相変わらずソファの上でスマホをいじっていた宇田川室長が聞いた。少し前から答えを用意していた俺は、振り返って言う。
「正直に書いたらどうかと思いました」
「正直に?」
室長は表情を変えずにオウム返しする。視線はまだスマホにある。指が動いているのを見ると、何かを読みながら俺の話を聞いているらしい。
「だから……中澤工業の状況を、全部正直に書くんです」
「ほう」
その気のない反応に、苛立ちを覚える。なにが、ほう、だ。
原稿はメリットで埋め尽くす、マイナスポイントは書かないのが基本、という求人広告で、「全部正直に書く」と言っているんだぞ。原稿作成において、そんな提案をクライアントにしたことなど一度もない。いつだって俺は、「いい所を膨らませて書きましょう」と言ってきた。そうやって作った原稿の方が明らかに効果があるし、そもそも、会社の至らない点をバラすような原稿では決済者のOKがもらえないのだ。
「……中澤工業には、同業他社とくらべて明らかに劣っている点がいくつもあります。給与も、制度面も、労働環境も、全部標準以下だ。それらをすべて隠すことは困難です。だったらもう最初から、全部ぶちまけてしまって、納得した上で応募してもらった方がいいんじゃないかと」
そうだ。中澤工業にはマイナスポイントがあり過ぎる。労働環境だけならまだごまかしもきくが、給与となればそうもいかない。月給20万円の募集を、月給30万円と書くわけにはいかないのだ。それでは虚偽広告になってしまう。だからこの際、何も隠し立てせず素っ裸になってみたらどうか、というのが俺の案だ。最初からすべてをさらけ出すことで、志望動機の強い応募者を集める手法だ。
俺の説明に「ふうん……」と呟いた室長は、スマホから俺に視線を移すと、言った。
「なんか、クーティーズみたいだね」
「……え?」
「つまり君は、中澤工業の採用課題を、クーティーズと同じやり方で解決しようとしてるわけだ」
思わず口ごもる。
図星だった。
クーティーズの原稿を見た時、こんな原稿に応募してくる奴が本当にいるのか疑問だった。だが実際、効果は出た。採用できるかは別として、応募数は非常にいい。あの原稿が変わっていたのは、店の状況があまりよくないことを正直に書いている点だ。それが逆に、求職者にウケた。掲載1日で10件の応募。こういう「事例」がある以上、試してみる価値はあるではないか。
「た、確かに参考にはしました。でも、中澤工業の状況と似ているのも事実です。中澤工業もクーティーズ同様、いろいろな課題を抱えている。それをしっかり表現することで、それでもいい、という人が集まるんじゃないかと思ってですね……」
「ふむ」
「実際、クーティーズは効果が出てるじゃないですか。だから、同じ手法を試さない手はないというか……」
室長は、よっ、っと勢いをつけて体を起こした。
「ま、悪くないと思うよ。しかし、クーティーズのやり方と、そっくり同じというわけにはいかない」
俺は自分が不機嫌な顔になったのを自覚した。
クーティーズの手法――いま隣の席でイヤホンをしながら作業をしている、どう見ても社会人には見えない頭のおかしい制作マン・保科の手法――をパクった、もとい、参考にしたのは事実だ。
だが、そこに根拠があるのだから問題はないはずだ。それに、クライアントに対してしっかり持論を展開する保科と違い、俺はまだ室長の力量を測りかねていた。営業としてどんな実績があり、どれほどのスキルを持っているのかよくわからない室長に、自分の意見を否定されるのはおもしろくない。
「……どういうことですか」
不機嫌を隠さず俺が聞くと、室長は肩をすくめるようにして、答える。
「クーティーズに応募が来てるのは、あれは……業態のアドバンテージがあるからだよ」
「アドバンテージ?」
「いま、クラフト系、手仕事系の飲食店は人気があるからねえ。コンビニやスーパーはやりたくない、マクドナルドのクルーでも物足りない、という人にとって、クーティーズみたいなこだわったお店のスタッフ、というのは魅力的に映るんだろう」
「……」
「1日で応募が10件あったからって、それがどんな10件なのかは知れたものじゃない。だから保科くんは、すぐに全員と連絡を取れって言ったんだ。簡易なエントリーシートだけ見てても、その人がどんな人間で、どんな気持ちで応募してきたかなんてなかなかわからないよ」
そんなこと……言われなくたってわかってる。そう思おうとしたが、言い返すことはできなかった。
「ま、要するに、クーティーズには業態が根拠の<ラッキー>があり得るってことだ。でも、かたや中澤工業はどうだろう。業種で見ても職種で見ても、あまりラッキーは起こらないように思わないかい?」
「……そうかも、しれませんけど」
しぶしぶ認める俺に、室長はどこか淡々とした口調で続ける。
「君の言うように、全てを正直に書いた原稿を掲載したとしよう。確かにあの会社の現状を伝えることはできるかもしれないね。でも、これから自分が働く場所を真剣に探している求職者が、わざわざ中澤工業を選ぶだろうか。同情はするかもしれない。でも……それだけだ」
いつも穏やかで、見方によっては「緩んでいる」と言ってもいい室長の表情が、一瞬、キリリと鋭くなった気がした。えっ、と思わず何度か瞬きをする。見れば、室長の顔は既に、いつもの呑気そうな笑顔に戻っていた。
「室長なら、どうするんですか」
不機嫌な気持ちはどこかにいきつつあった。室長の考えを聞きたい。この人なら、営業としてどんな提案をするのか。
「そうだねえ。やっぱり、中澤工業にしかない魅力、を見つけるべきなんじゃないかな」
「魅力、ですって?」
一瞬ふくらんだ期待が、急激にしぼんでいった。
なんだそれ。あまりに「普通」の答えにガッカリする。その魅力が見つからないから苦労してるんじゃねえか。
というより、中澤工業はデメリットだらけの職場だ。工場は古びていて、会社規模も小さく、給与や待遇も悪い。仕事は簡単ではなく、残業だってあるのに、給料は同業他社より何万円も低い。もしかしたら外国人が働いていることをマイナスに感じる求職者もいるかもしれない。
……確かに人はいい。社長も婦人も、ベトナムからの研修生たちも……そしてあの高本も、皆いい人たちだとは思う。だが、如何せんマイナスポイントが多すぎる。
そんな状況を前に、「中澤工業にしかない魅力を見つけろ」と室長は言うのか。
やっぱりダメだ、この人。俺は内心で思う。だいたいこの人は、研修に来ただけの俺に案件を丸投げしている。自分で考えられないから、俺にぶん投げたのか?
俺の気持ちを知ってか知らずか、室長はまたスマホをポチポチと操作し始める。
一体どういうつもりなんだ。「自分の案件なんだから自分で考えろよ」と今にも口から出てきそうな気分だった。
……だがそのとき、部屋の隅にあるプリンターがガチャガチャと動き出した。何枚もの紙が吐き出されている。
室長はよっとソファから立ち上がると、その紙束を持って戻ってきた。
「これ、見た?」
手渡された書類に目を落とすと、よくわからないが、何かの個人ブログのようだった。大手ブログサービスを使った、何の変哲もないブログ。SNSでの投稿が当たり前になった今、そのUIはひどく古めかしいものに見える。デザイン性にはまったく気を遣っていない、ゴチャゴチャして見にくいレイアウト。
「……なんですかこれ」
書類から顔を上げて聞くと、室長はニッコリとして答えた。
「あのご婦人のブログだ」
「え……婦人って、中澤社長の奥さんですか」
俺が言うと室長は頷いた。
「内容は、ま、普通の日記だ。桜が咲いたとか、誰それがお土産をくれたとか、そろそろ年賀状書かなきゃとか」
俺は再び書類に視線を落とした。ページをめくる。確かに、そういう内容の日記が、数行という短い文量で書かれてある。その言葉遣いも、なるほど年配の女性という感じだ。すぐにあの婦人の顔が思い浮かぶ。
「正直、PVはほとんどないだろうなあ。ランキングに参加してる風でもないし」
「まあ……そうでしょうね」
俺はなぜ室長がこんなものを見つけてきたのか、そしてそれを俺に見せたのかよくわからないまま、言った。ほぼ毎日更新されているらしく、記事数は実に三千件近くにものぼっている。
「じゃあ婦人はどうして、こんなものをつけているんだろう。誰に読まれるわけでもないのに」
そうだ。
室長の言う通り、こんな個人の日記を熱心に読むほど皆ひまじゃない。
有名人ならいざ知らず、下町にある小さな工場の事務員の日記を、誰が読みたいと思うだろうか。
「君はどうしてだと思う?」
再び聞いてくる室長に、俺はまた不機嫌になる。
「そんなのわかるわけじゃないじゃないですか」
「気づかないかい?」
「何がですか」
「……手紙だよ」
「え?」
「これ……亡くなった息子さんに充てた、手紙なんだよ」
思わず息を呑んだ。無言で手の中の紙に見入る。
「じっくり読んでみればわかる。一見、どうということのない文章に思えるがね。これは誰かに向けて語りかけてるものだ。それも、特定の誰かに」
「……」
「溜まった記事は約三千件。その最初の投稿は、いまから約9年前だ」
「9年前……」
息子さんが亡くなったのは9年前。婦人の悲しそうな顔が思い浮かんだ。
「……でも、そうだとして、何だと言うんです。これが求人にどう関係するんですか」
何となく心を乱された俺は、ぶっきらぼうに言った。
室長はニッコリと笑い、肩をすくめた。
「求人広告はラブレターだって、習わなかったかい?」
◆
手紙を書いてほしいんです、室長がそう告げると、中澤婦人は驚いた顔をした。
当然の反応だろう。俺だって同じ気持ちだ。思わずチラリと横の室長を伺うが、想像通り、その顔に迷いの色はない。
俺たちは再び中澤工業に来ていた。古びた事務所の応接セット。年代物の革張りソファに俺と室長は座り、昨日と同じ制服姿の婦人と向き合って座っている。
続きの説明を待っていたのか、婦人は何も言わずに黙っていた。それでも室長が何も言わないので、微かに首を傾げ、笑みを浮かべて言った。
「手紙って……誰に?」
「高本さんにです」
「タカちゃんに?」
再度の驚きでボリュームが大きくなった婦人の声に、俺は視線を落とした。なんとなく恥ずかしい気持ちだった。同じAAの社員としてここに座ってはいるが、俺だって別に室長の提案に賛成してるわけじゃない。
マイナスポイントだらけの中澤工業、その採用課題の解決法として室長が出したアイデアは、「高本に対するラブレター」という奇妙なものだった。
求人広告はラブレターだって、習わなかったかい? 昨日、HR特別室で室長はそう言った。何となくドキリとする物言いではあった。
だが、あらためて考えてみれば、よくわからないのだ。「求人広告が企業からのラブレターである」という話自体は理解できなくはない。入社間もない頃に受けた研修の中で、そういう比喩を使った座学を受けたような気もする。だが、それはあくまで「求職者に対するラブレター」であって、既に勤務している社員に対するものじゃない。それもその社員はいま、辞める辞めないで会社と揉めているのだ。
気まずい沈黙が降りた。
チラリと上目遣いに婦人の顔を盗み見ると、さすがの婦人も理解できないのだろう、ポカンとした表情で室長を見つめ返している。
「ええ、タカちゃんに。ラブレターをね」
一方の室長は嬉しそうだ。その物言いにはやはり躊躇のかけらもない。
「ラブレター」
「そう、ラブレター」
オウム返しする室長に、はじめて婦人の顔に不安げな表情が浮かぶ。
「それは……あの……求人についてのご提案、なのかしら」
婦人は言った。
俺は思わず大きく頷きそうになってしまった。
当然の疑問だ。この上なく当然の疑問だ。求人業者にいきなりラブレターを書けと言われたら、クライアントによっては怒り出すかもしれない。それも宛先は、他でもない「辞めさせようとしている社員」なのだ。
「求人についての提案? ……うーん、さあ、どうでしょう」
驚いて思わず俺は室長を見た。さあどうでしょうって……いったいこのオッサンは何を言っているのか。
「ごめんなさい、私にはちょっと仰ってる意味が――」
婦人が言いかけたのを遮るように、室長は言った。
「ただ、私から見て、求人広告よりもそちらの方が大事な気がしたのでね」
婦人は口をつぐみ、黙って室長を見つめた。
その顔にはなぜか、挑むような色が浮かんでいる。そんな表情の婦人を見るのは初めてだった。
怒っている。そう感じた。
「どういうことかしら」
「多分、社長やあなたはこう思ってるんでしょう。自分たちがタカちゃんを檻に閉じ込めてしまっている。そんなことはしてはいけない。だから開放してあげなければと」
「……ええ、そうね」
「タカちゃんのお母さんが倒れて、それなのにタカちゃんは帰ろうとしない。自分のお母さんより、あなたたちを、あるいは中澤工業を優先してしまう。そこに罪悪感を覚えてる」
「……ええ、その通りよ。こんな大変なときに、どうして彼を会社に縛りつけておけるの」
俺は彼らのことをほとんど知らない。社長の入院している病院で、そしてここで行った取材で、ほんの数時間見ていただけだ。だがそれでも、中澤社長と高本との結びつきの強さは感じることができた。俺たちに対する高本の乱暴な態度も、いま思えば中澤夫妻や会社を守るためのものだったのだとわかる。
だからこそ、婦人の気持ちも理解できる気がした。高本が自分たちや会社を大切に思えば思うほど、それを受ける側の人間は辛いのかも知れない。高本に対して申し訳なくて、たまらなくなるのかもしれない。
「そうじゃない」
室長の言葉に、思考が途切れた。
「そうじゃないんじゃないですか。ご婦人」
「……」
「タカちゃんのお母さんの件は重要なトピックスでしょう。でも多分、あなた方の罪悪感はもっとずっと前から始まってたんだ」
婦人はもはや不信感を隠そうとしていなかった。突然よくわからないことをいい出した室長を、警戒した顔で睨んでいる。
「ずっと前からって……宇田川さん、あなたいったい何を言い出すの」
「9年前です。そうです。息子さんが亡くなった時から、あなたがた夫婦は罪悪感に苦しんできた」
「ちょっと室長、それは――」
俺は思わず言った。婦人の方から話してくれるならまだしも、息子さんの死についてこちらから触れるのはさすがにマズイだろうと思ったからだった。
だが俺は言葉をつぐんだ。
いつの間にか室長の顔から、いつものゆるい笑顔が消えていた。
まっすぐ婦人を見つめる、真剣な顔。
「あなたは昨日、こう言った。悲しむ間もなく、あの子は現れたって。どれだけ出て行けと言っても出ていかなかったんだって」
「……ええ、言ったわ」
「それから9年間、タカちゃんはここにいた。息子さんの代わりになろうと思ったんでしょう。思い込みとは言え、タカちゃんは自分のせいで息子さんが亡くなったと思ってる。その罪滅ぼしとして、あなたがたのそばに居続けたんだ」
「……そうよ……だからこそ、私たちはもう、あの子を開放してあげないといけない」
「そりゃ違う」
室長は言った。婦人の小さな目が一瞬大きく見開かれる。
「……違う? 違うって……どうしてそんなこと……」
そして婦人はたまらないといった雰囲気で俯いた。手に持っているハンカチを握りしめ、苦しげに表情を歪ませる。
マズイ、と思った。さすがに言い過ぎだ。いったい室長は何を考えているのか。
「室長……もう……」
そう言う俺を、室長は手で制した。そして俯く婦人に向かって、言った。
「どうして考えてやらないんです。タカちゃんの気持ちを」
婦人は視線を落としたまま目を見開いた。
「あなたや社長が彼を息子だと思っているのと同様、彼だって、オヤジとおっかさんは自分の親だと思ってる」
「……」
「彼は誰よりも優しい子だ。あなたはそう言ってましたよね。私もそう思います。そして誰より、あなたたちのことを見てる。タカちゃんは、あなたや社長の考えなんてとっくにお見通しだ」
婦人はゆっくりと顔を上げた。その目が潤んでいる。
「……お見通し?」
「彼はあなたや社長が、ずっと罪悪感を抱えてきたことを知ってる。だから今回のことがあって、自分がおとなしく退職して出ていけば、あなた方の心が少しは軽くなるだろうこともわかってる。でも、彼はそれを受け入れられない。なぜだと思います?」
「それは……あの子が私たちに対して責任を……」
「バカ言っちゃいけない」
室長は声を強めた。
「あなた方と一緒にいたいからでしょうが! あれだけ人の気持ちに敏感なタカちゃんが、なぜ出ていかないのか。そんなの理由は一つだ。出て行きたくないんですよ。自分が実家に戻る方があなたたち夫婦が安心するだろうことはわかってて、それでもそれを拒んだ。これはもしかしたら、タカちゃんの初めての反抗なのかもしれない。わかりませんか、ずっと自分よりあなた方を優先してきた息子が、それだけは嫌だと言ったのが、あなたたちと離れることだったんだ。彼にとっても、あなた達は自分の人生に欠かせない存在なんです。想像してください、誰よりも大切な親から、出て行けと言われた息子の気持ちを……」
「……」
言葉は出なかった。だが、婦人が強烈な感情に襲われているのはすぐにわかった。潤んでいた目から大量の涙が溢れ出した。
何も言えなかった。室長の方を見ることもできず、俺は俯いた。
「だから、手紙なんです。今の気持ちを、素直な思いを、手紙にしたらどうかなと思いましてね」
室長が言うと、婦人は一瞬目を大きく見開き、それから固く閉じた。
その時――
事務所の裏口が音を立てて開けられた。顔を上げる。
そこに立っていたのは――高本だった。
高本は泣きじゃくる婦人を数秒間、呆けたように見つめた。
次の瞬間――
「お前ら……俺があれだけ言ったのに」
鬼の形相。俺たちを殺しそうな顔。その巨体がワッとこちらに向かって駆けてくる。
その時、婦人が立ち上がり俺たちと高本との間に立った。
「どけよ、おっかさん」
「ごめん、タカちゃん」
「……あ?」
「ごめん、タカちゃん、ごめん。辞めろなんて言って、ごめん」
「……」
「私もあの人も、あなたに辞めてなんてほしくない。ここで、ここでずっと、ずっと一緒にいてほしい」
「……」
「私たちはあなたに、何も伝えてこなかった。気持ちを、隠していた。申し訳ないとずっと思っていたから」
高本の表情が変わったのを俺は見た。あのとき、そう、昨日、食堂から出ていくときに見せたあの表情。
「手紙を書くわ。もう意地を張ったりなんてしない。私が、私たちがあなたにどれだけ感謝しているか……どれだけ愛してるか、素直に書くわ。それを読んでから、どうするか決めてほしいの」
「……」
高本は返事をしなかった。だがその表情は、先程の鬼の形相とはまるで違うものだった。
母親に抱きしめられた少年のような。
そして俺は室長の伝えたかったことを理解した。
苦しんでいるのは、高本も同じだった。
社長や婦人と同様、いや、もしかしたらそれ以上に、高本は苦しんでいたのだ。
◆
中澤工業からの帰りのタクシー。微かにタバコ臭い車内から、遠ざかっていく古びた社屋を見つめる。そしてその背後に建つ四角い工場。
「室長」
視線はそのままに、言った。
「ん? 何だね」
「……これが、仕事なんですか」
自分がどういう気持ちなのかよくわからなかった。苛立っているようでもあり、諦観に襲われているようでもある。
事務所で婦人が泣きじゃくり、高本に手紙を書くと言った。正直な気持ちを書くから、それを見た上でどうするかを決めてほしいと婦人は言ったのだった。あのときの高本の顔を俺は忘れないだろう。あの大男が、まるで幼い少年のように見えた。
俺たちは結局、そのまま中澤工業を後にすることになった。目を赤くした婦人がタクシーを呼んでくれ、それが到着する10分程度の時間にも、室長は特に仕事に関する話をしなかった。
「さあねえ」
相変わらずの呑気な物言いに、俺は思わずカッとなって室長の方を見た。
「さあねえって……室長、これじゃ俺たち、タダ働きじゃないですか。いや、働きにすらなってない」
「ん? どういうこと?」
「だってそうでしょう。俺たちは何も売っていないし、中澤工業は何も買っていない。内輪揉めを仲裁しただけだ」
そうだ。その「内輪揉め」こそ、中澤工業が俺たちAAに声をかけた理由だった。高本が退職するということで、新人採用のニーズが持ち上がったのだ。その退職がなくなってしまったら、求人のニーズも同時になくなる。しかも今回、室長自らそのニーズを潰しにかかった。言わば、自ら利益を捨てたようなものなのだ。
「これでもし……もし高本さんの退職がなくなったら、中澤工業は求人を出す理由がなくなる。そしたら俺たちの仕事もなくなってしまいます」
「うん、そうだね」
そうだねって……。思わず大きなため息をついた。何をどう言えばいいのかわからず黙っていると、室長が言った。
「で、それのどこが問題なんだい?」
「……は?」
こ、この人は……この人はいったいどこまで本気なのだ?
「どこが問題って……俺たちの仕事は求人広告を売ることなんだから、それがなくなったら大問題じゃないですか!」
俺の剣幕に、老齢の運転手がちらりとこちらを振り返った。
HR特別室という部署が、AAの中でどんな立ち位置なのかは未だによくわからない。だが、室長にしろ保科や高橋にしろ、AAという会社に雇われて給料をもらっている人間であるのは間違いないだろう。そうである以上、会社の利益のために働く義務がある。
「ああ、なるほど。そこが違うのか」
「……違う? どういうことです」
「いや、まあ、別に君の仕事観をどうこう言うつもりはないんだけどさ」
「じゃあ、なんですか」
「いやね。求人広告を売ることが自分の仕事なんて、私は考えたことなんてないなと思っただけだよ」
◆
葛西駅に到着してタクシーを降りると、室長は次のアポがあると言い残してさっさと姿を消してしまった。
営業一部の仕事ではほとんど来ることのない界隈だ。高架になった線路の下に店舗が並ぶ風景にはどこか下町感がある。いきなり一人にされて、俺はこれからどうすればいいのか。室長は何の指示も残してはいかなかった。
俺はどこかボンヤリとした心地で、駅とは違う方向に歩き始めた。普通に考えればこのままHR特別室に戻るべきなのだろうが、なんとなく、タクシーの中での会話が頭に残っていた。それに、中澤工業での出来事も、どう消化すればいいのかわからなかった。
俺はあてもなく歩いた。
幼い頃から、どんなことでも大抵はうまくできた。学校では、先生がどうしてほしいのかは簡単にわかったし、応える為の努力もしてきた。それは就職活動でも同じだった。だからこそ俺はAAに入れたのだし、同期の中でも珍しい営業一部配属という華々しいデビューを飾ることができたのだ。
だが、HR特別室は、違う。これまでのやり方がまるで通用しない。保科にしろ室長にしろ、自分とは全く違う価値観の中で働いているとしか思えないのだ。
「……なんなんだよ、クソ」
今更のように悪態をついた。だが、それで気持ちがおさまるはずもない。気づいたときには携帯電話を取り出していた。そして自分でも驚いたが、俺は営業一部にいる同期、島田の番号を画面に表示させたのだった。
なんでだよ。なんでここで島田なんだ。
バカバカしいと首を振り、画面を閉じかけた。
だが――
俺はずっと、島田の仕事の仕方をバカにしてきた。スマートさのかけらもない、まるで営業二部、いや営業三部のような泥臭い営業。クライアントの話にいちいち感情移入し、売上に見合わないような取材を行い、原稿の効果に馬鹿みたいに一喜一憂する。営業一部というのは、もっとクールでクレバーでなければならない。そう思っていた。
だが今、自分の中で何かが変わり始めている。
話し方といい風貌といい、そして仕事の進め方といい、どこか室長に似ている島田なら、俺のこのモヤモヤした感情に何らかの答えを出してくれるのかもしれない。
「はいはーい」
数度のコールで島田は出た。
「村本だけど。お前、いま外?」
「うん、アポ帰り。どうしたの?」
「いや……」
何をどう言えばいいのだろうか。今更になって動揺したが、考えている間に面倒くさくなって、言った。
「お前さ、俺たちの仕事って、何だと思う?」
「え? 何?」
「だから……俺達の仕事って、一体なんなんだ?」
「……」
電話の向こうで島田がどんな顔をしているのか、簡単に想像できた。あの、驚いたときに見せる、ひょっとこのような表情をしているのだろう。やがて向こうから、小さな笑い声が聞こえてきた。
「何だよ、笑うなよ」
「いや、ごめん。まさか村本くんがそんなこと言うと思わなくて」
「うるせえな。いいから答えろよ」
さすがに恥ずかしくなってきて、声を荒げた。島田の笑い声がやみ、「……そうだなあ」という呟きが聞こえた。五秒ほど黙った島田は、言った。
「端的に言えば、求人広告を売ることなんじゃないの」
「え?」
意外な答えに思わず言う。
「だから、僕らの仕事は、求人広告を売ることでしょ」
「そ、そうだよな」
「うん。僕ら営業マンなんだし」
「だよな」
「うん」
ほら見ろ、あの島田だって、俺と同じ考えなんじゃねえか。俺は、ホッとしたやらムカつくやら妙な気分になりつつ、「だよな、だよな」と繰り返した。
その時――
「でも」
島田が声を落とした。
「それは間違いかもしれないって、最近よく思うんだよ」
「……は? 何だよそれ」
「言ったよね、何か流れが変わってきた感じがするって」
「ああ……」
そうだった。確かに昨日の電話で、島田はそう言っていた。営業一部の達成が「裏ワザ達成」だったこと。そして大きなクライアントが複数落ちたこと。
「お客さんが僕たちに求めることが、変わってきてる気がするんだよ」
「変わってきてる? どういうことだよ」
「先輩がそう言ってた。なんか、データだとか事例だとか、そういうのだけじゃもう厳しいって」
「はあ? なんだそりゃ。じゃあどうしろって言うんだよ」
「よくわからないよ。だいたい僕は、先輩たちみたいなデータ型の営業は最初からしてないもの。してないっていうか、できないだけなんだけど」
そう言って島田はケタケタと笑い、「でもさ」と続ける。
「でも、なんだよ」
「こんなこと言うと先輩に怒られそうなんだけど」
「なんだよ、言えよ」
島田がすっと息を吸うのが聞こえた。そして、妙に真剣な口調で言った。
「皆、クライアントをモノみたいに考えてる気がする。求職者のことも」
「……そりゃ、売上目標があるんだから、いちいちじっくり考えてられねえだろ」
「いや、うん、それはわかるんだけど、そういうことじゃなくてさ」
「なんだよ、何の話だよ」
「僕、ずっと不思議だったんだよね」
「何が」
「人のことを扱う業界なのに、人間性をどこかで否定している感じがするんだよ、僕ら業者もそうだし、クライアント側も。どうしてか皆、意識して無感情になろうとしてる感じがする。それってなんか、変だなーって。求人業界なんだから、もっと人間っぽく仕事したらいいのになーって」
「……」
「でも、なんかそれが変わってきたのかもね。クライアントの方が、だんだん感情的になってきた気がする」
「感情的?」
「うん。僕にとっては、その方がわかりやすくていいんだけどね」
そう言って島田は笑った。
「まとめ読み第3話」おわり 「まとめ読み第4話」は11/16にUPします。
児玉 達郎|Tatsuro Kodama
ROU KODAMAこと児玉達郎。愛知県出身。2004年、リクルート系の広告代理店に入社し、主に求人広告の制作マンとしてキャリアをスタート。デザイナーはデザイン専門、ライターはライティング専門、という「分業制」が当たり前の広告業界の中、取材・撮影・企画・デザイン・ライティングまですべて一人で行うという特殊な環境で10数年勤務。求人広告をメインに、Webサイト、パンフレット、名刺、ロゴデザインなど幅広いクリエイティブを担当する。2017年フリーランス『Rou’s』としての活動を開始(サイト)。企業サイトデザイン、採用コンサルティング、飲食店メニューデザイン、Webエントリ執筆などに節操なく首を突っ込み、「パンチのきいた新人」(安田佳生さん談)としてBFIにも参画。以降は事業ネーミングやブランディング、オウンドメディア構築などにも積極的に関わるように。酒好き、音楽好き、極真空手茶帯。サイケデリックトランスDJ KOTONOHA、インディーズ小説家 児玉郎/ROU KODAMAとしても活動中(2016年、『輪廻の月』で横溝正史ミステリ大賞最終審査ノミネート)。
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