「ハッテンボールを、投げる。」vol.67 執筆/伊藤英紀
わが社(ハッテンボール)は、僕も含めて9人で動かす小さな会社です。
僕は50代ですが、他はみんな20代30代。50代の僕の将来も不透明なわけですが、人生これからの20代30代の社員たちはもっと大変だなあと、ときどき思ったりします。
少子高齢化にともない日本の財政はさらに悪化し、社会保障費も国の借金もどんどん膨らんでいく。僕より20年30年長く生きる可能性のある若いみんなは、大変な時代を生きるなあと。
でもふと思う。「待てよ。僕の若いときからこれまでって、そんなによかったっけ?」
20代前半は週休1日で残業だらけだったし。僕は非正社員ながら制作チーフとして正社員とほぼ同じ仕事をしていたけど、正社員との収入格差は大きかったし。
バブル時にフリーのコピーライターになったけど、収入面でバブルの恩恵はさほど味わっていないし。バブル時に焦って不動産投資して痛手を味わっているし。
30代半ばで組んだ住宅ローンは固定で4%近くて今と比べると高金利だったし。バブル終焉ののち市場環境が厳しくなっていく中で、仕事が減って苦境を味わい、仕事スタイルの転換を余儀なくされたし。49歳で在籍した会社が倒産して、一から出直しになったし。
自分のせいがかなりあるにせよ、振り返ってみれば「今の若い人と比べてそれほどいい時代を生きてきたわけでもないんじゃないのかなあ」とも思うのでした。
若い人のことを大変だなあと僕がつい思ってしまうのは、つまるところ、深層心理で(それほど奥ではないが)、こう思っているってことじゃないか、と考え直しました。
「僕は20代から30年、そこそこの荒波をかいくぐってきたぞ。なんとか50代後半までやってこれた。いろいろあったが、やれやれよかった。おっ、あそこの波打ち際に見えるのは20代30代たちじゃないか。やつらはこれからあの荒波に揉まれるのかあ。大変だなあ。」
ヤな心理ですね。若い人の大変さを想像することで、その大変な波をすでにかいくぐって陸に立つ自分に一層安堵できる、というわけです。
いわゆる“高みの見物”という心地よさであり、経験自慢なのかもしれません。
相手の大変さをことさら気にかける、といういっけん他人思いの心理には、こうした偽善というか、抑圧された“さもしさ”がぷーんとニオいます。
しかも深層心理にはこれだけではなく、さらにもう一つ、ヤな想念と効能があるんですよ。
僕の人生は50代後半でアガったわけではなく、健康であればあと30年続く可能性だってあるわけで、これからの人生にはこれまで経験したことのない新しい重荷も待っているわけです。
縮小する日本を生き抜かなきゃならないのは、若い人も僕も同じなのだ。
天候の悪い中、自分はまだまだこれから20㎞走らなきゃならない。しんどいのはやだなあ。でもほら、目の前には50㎞走らなきゃならないヤツがいるぞ。「おーい、きみらはこれから50㎞走るのかあ。大変だなあ。頑張れよ」と応援のふりをすることで、20㎞のしんどさから目をそらし心理的な重荷を軽減できるのだ。
あー、ヤダヤダ。ヤダねえ。というわけで若いあなた。あなたのことをことさら想ってくれる年上とかは、わりとウサン臭いですぞ。あ、もしかしてあなたはすでにウサン臭い?
僕に限らず人間というのは厄介で、誰かのしんどさを自分と比べながら、自分を安定させようとする傾向がありませんか。
そんなことはなにも生み出さないわけですから、自分のことを“人の心やしんどさがわかるやさしい人”とことさら自慢に思っている人は、生産性が低い人ということの証にもなりかねないなあと思いました。
生産性が低い日本は、もしかしたら“自称やさしい人”が多いのかもしれません。