その115 怒られる

以前に、古い製造業、とくに中小企業では
社内で使われる行動規範のなかに「躾」が含まれる場合がある、
と書かせていただきました。

躾は、辞書的な意味もありますが、一般的には親が子に対して
社会のルールなどをとにかく吞み込ませる際に使われるものです。
すなわち、社内で躾が重要だということは、
その会社組織における上下関係には、イコール人間的な価値の差も入っていると
暗に認めている、といえなくもないのです。
仕事の局面以外は対等な権利を有する人格として向き合っていたら、
どちらかがどちらかを「躾ける」ことなどできないのですから。

まあ、おそらく管理をされている当事者の方に問えば、
そんなつもりはないとお答えになるはずです。
というか、今日、そんなムダに重たいもの、誰だって背負いたくはないはずです。

しかし、昔ながらの日本のカイシャという集団においては、
管理という「仕事」の中に「倫理観」というプライベートな価値基準が
分かちがたく混ざりこんでしまっており、それは簡単に切り離せないように
思えてなりません。

たとえば、わたくしたちは、よく「怒られる」といいます。

お客様や上司相手はもちろんのこと、
個人的に覚えがあるところでは、業務システムを操作している際、エラーメッセージを
返されたときですら「怒られる」という言い方が使われています。

当然、本当はシステムは怒りません。
システムの内容はどうであれ、アプリであり、プログラムであることはみな同じですから、
出来事としては「自分の命令が間違っていた」のが正しいのです。
にもかかわらず、わたくしたちが自然に「怒られた」と表現してしまう、
そのココロとはなんでしょう。

仮説をひとつ申し上げれば、
それはわたくしたちが受けてきた、それこそ文字通りの「躾」に根源があるのではないか、
と思います。
善し悪しを判断する「オトナ」がいつもどこかに存在して、
そのオトナが結論や価値観を上から下に降ろしてくる。
わたくしたちはそれに対してつねに受動的な存在である。

子供ではなくなり、とっくにそんなオトナの手から離れて
年齢だけはうんざりするほどオトナになった現在でも、
どこか上の方にそんな「オトナ」がいる。(実際代わりのオトナ役がいたりもする)

そんな感覚からいつまでも脱却できない、その結果がたとえば
「命令が間違っていた」ではなく「怒られた」なのではないか。

もしそうだとすれば、躾のハナシにしても、社員それぞれが意識的にか無意識にか、
自身を会社に躾けられるべきものとして捉えている、望んでいるとさえ仮定できます。

なにしろ、結果が出なくても責任を果たせなくても、
最後は「オトナ」にまかせておけば、それで万事問題ないのですから。

 

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著者自己紹介

「ぐぐっても名前が出てこない人」、略してGGです。フツーのサラリーマン。キャリアもフツー。

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