先日、ママチャリで幅の狭い歩道を通行しておりましたら、
前方に同じ方向へゆっくり歩いているおじいさんがおられたので、
その方の5メートルくらい後ろまできたところで
車の流れがないのを確認したうえで、車道に下りました。
すると、そのときの音を聞いたおじいさんが振り返り、「危ない!」と怒られました。
何年か前にも、日本橋のでっかい横断歩道を歩いていたら、
向かいから来た自転車に乗ったおじいさんに突然
「そこ歩くなよ!」と叱られたことがありました。
見ると、今はそういうの少なくなった気がしますが、
幅の広い横断歩道の端に引かれた「自転車帯」にいたのが邪魔だ、
ということのようでした。
最初の例など、
そもそもチャリでは乗ってはいけない歩道であった可能性があったりして、
交通法規上なにが優先であるとかいうことに
わたくしも理解が不十分であるのは否定できません。
しかし、とかく道路の上というのはトラブルが生じやすい場所であり、
その主体が「怒れる男性」というのは間違いありません。
そして、人によっては年齢を問わず、その構造は不変であるのだなあと
思うところでありました。
運送や現場仕事をなりわいにしている人にとっては
交通は生活手段の一部というものであり、荒っぽい言動にも
若干のエクスキューズがありうるのかもしれませんが、
ご当人にとっては職業や年齢の垣根などなく、
許せないものが路上にあるかぎりは怒りを表明し続けるのでしょう。
そこで気づいたのですが、
世の中にいろんな男性がいるにもかかわらず、いまのところわたくしも
ハタチくらいまでの「子ども」には路上で怒られたことがありません。
小学生男子など、自転車で友だちと並走しながら狭い道から飛び出すようなことは
まあまあ平気で行なうと思いますが、
逆に衝突されそうになって「バカヤロー!」と怒っているところは
まだ見たことがありません。
「子ども」だからといって攻撃性がないわけでなし、
これ、ちょっと大げさにいうと、人生の立ち位置のあらわれなのではないでしょうか。
児童から少年、そして青年、乗り物も自転車から原チャリに、そしてクルマへ、
役柄と道具を変えながら路上という社会に参加していくなかで、
きっとあるとき、男の子は目覚めるのです。
「あぶねえ!そして、これは相手が悪い!自分に理がある!」
「……これは主張しなければいけない!」
それはおそらく、どちらかというと交通の場では違反を行ないがちな
「青年」であった男性が、法規というルールに根ざして
正義を行使する決心をした瞬間、既存の世界の秩序の側に立った瞬間です。
そのとき、年齢を問わず、「青年」はちがう存在に生まれ変わるのです。
それがすなわち、「おっさん」なのです。