1年くらい前に、自分に合う洋服屋さんを見つけました。
自分に合うというと、自分がお店を選ぶ主体のようでなんだかえらそうですが、実際はそうではありません。
わたくしの環境はそうでありませんが、たとえば平日にスーツを着る方が、週末にしか着られないカジュアルファッションに熱意を持ち続けられるでしょうか。ほとんど仕事を在宅で行う方が、張り合いをもってスーツをそろえることができるでしょうか。
(若い人のように)もてたいとか、少しでも人に良く見られたいとか、そういう意欲以外の動機では、「日常的に着られて、自分を喜ばせてくれる」という要素が基本的に衣服には必要なのだと思います。
また、消費者としてのレベル、ようするに身のほどに合った価格帯であることも大事です。
モノの価格には実際のコストから幻想的なマーケティングによるところまで、なんらかの背景が存在するものです。そういう意味では安ければ安いほどイイ、というのは関心の低い生活必需品などに適用される基準で、本当はなくてもいいけれど、楽しみのために買おうとする衣料には、だいたい身のほどの上限にあわせた価格帯が適切なものと感じられます。
それ以上になると、どこかムリをしている自覚があって、楽しい感覚を阻害しかねません。
また、わたくしがそのお店を気に入った理由はもうひとつあり、それは
「実店舗に行かなくてはいけない理由がある」
ということです。
昨今ネットで買えないものはありません。
該当のお店も当然オンラインでも販売をしており、移動コストの分、完全にオンラインの方がコスパがよろしいです。
しかし、そのお店、とにかく同じようなものばかり売っているのです。
Tシャツであれば、白か、黒か、グレーかのほぼモノトーンで、かつ無地しかありません。店員の方の写真や、説明や、サイズ寸法の表記で情報はつかめても、Tシャツがいちばん注力している素材において、「雰囲気」はさわらなければわからないのです。
少なくとも、「触れて気持ちいい」という感覚抜きにまあまあな値段のTシャツを買うことはできないでしょう。
したがって、ネットで見たものをさわりに、わざわざ出かけて行っているのです。
身のほどの上限の消費をしようとしているときに、必要なこととして、「行って買う」という行為がある。最短距離なだけで、楽しいわけではないというネットの買い物に染まった一市民には、これも喜びといえるのかもしれません。
ところで、最近は身のほどではなく「身の丈」としかいっているのを見ませんね。現実を遠慮なく突きつけている感じがして、個人的には好きな物言いですけど。「身のほど」。