一般論ですが、社会生活で自分のメンタルヘルスを保つコツとして、よく、
「他人をコントロールしようとしないこと」
などといわれます。
コントロールできるはずもないモノを自力でどうにかしようとしない、または期待をしない。
これはひとつの真理であり、わたくしも大昔、若かったころにこの考え方に少し助けられた覚えがありますし、いまも同じような言い回しが世間に存在します。
このようなものの見方や気づきは、おそらく誰もが年齢を重ねていくにつれてちょこちょこ積み上げているものだと思います。
心理的にいいますと、「あのころは視野が狭くて頑なだったけれど、いまになってみればこんな抜き方、逃げ方があるとわかった」というような感じです。
こういう状態の変化は、総じて「性格が丸くなった」「人格が老成した」といわれるものです。
われわれの多くは、それを生理的な変化のひとつとして自然に受け入れていることでしょう。また、若いころ見えていなかった視野の広がりを獲得したことは、成長の一種であるともいえます。
しかし、個人的にはいつからか、これが果たして人として良きことなのか、と疑問に思う気持ちが芽生えてきています。
紀元前のインドの王様、アショーカ王は、征服欲に燃えて戦争を繰りひろげた末、広大な版図を獲得した代わりに大量の死者と土地の荒廃を生み出してしまったそうです。
アショーカ王はその実態に気づき、衝撃を受けて改心します。仏教に帰依し、統治を法と徳による社会秩序という平和主義へ、180度モデルチェンジを行いました。
極端な例ですが、このようなエピソードをみると、普通はつい、改心した後の「いいことパート」に目が行ってしまいます。
ですが、これ、善悪抜きにいって、どちらも王様が持っていた「膨大なエネルギー」のなせる業なんですよね。戦争も平和主義の治世も、ベクトルが違うだけで、源泉となるエネルギーがもたらしていることには変わりないのです。
現代でいえばビルゲイツが慈善財団をやっているようなものでしょうか。
そして、アショーカ王やビルゲイツは多少人間丸くなって善行をしてそれで良いのでしょうが、われわれ凡人パートに属する者たちは、ただでさえ乏しいエネルギーが枯渇しているだけの現実に「老成した」なんていい気になっていていいのか、いや良くねえんじゃねえの。