隆弘、という名が出た瞬間、槙原社長の顔がカッと赤くなった。そして、身を乗り出して、テーブルを挟んだ向かい側に座る都筑の肩を抱くような素振りをしながら、「あいつは!」と叫ぶように言った。
「あいつは……兄は……弱かっただけだ! 高木生命の与えた試練に勝つことができなかった。せっかく先輩たちが強くなる機会を与えてくださったのに、それに応えることができず、勝手に脱落していったんです! そんな奴のことを、先輩が気に病む必要などありません! ……先輩、私を見て下さい、先輩は事実、私を成功させてくれた。あんな弱者のことではなく、先輩たちの紡いできた伝統を引き継ぐ、私のような人間を見て下さい!」
……だが、畳み掛ける槙原社長の言葉に、都筑の表情はさらに苦しげなものになっていく。
「違う。違うんだよ、槇原」
「先輩?」
そして都筑はグッと目を閉じ、呻いた。
「その“伝統”こそが、俺を苦しめているんだ。俺が先輩から受け継ぎ、そしてお前たちに強いた、その伝統……。そしてお前が今、かつての俺と同じ様に、若手に強いているいるその伝統。俺たちはそれをこそ“正しいこと”だと教えられてきた。そこに何の疑いも持たず、いや、疑うことを許されないまま、それだけが正しい道で、ついてこれない奴は間違っていると信じて、ただひたすらに突き進んできた」
「そ、そうです! その通りです! だから先輩もあれほどの役職を得られたのではないですか! そしてその先輩に指導いただいた私も、高木生命の幹部としての成功が見えてきています。それは“正しいこと”ではないですか!」
「違う」
都筑はそして、まっすぐに槙原社長を見据えた。その目に、どこか芯が通った感じがする。槙原社長もそれを感じたのだろうか、かぶりつきだった体を少し引く。
「……違う?」
「ああ。俺は今日、お前にそれを伝えたくてここまで来た。いいか、俺たちは“正しいこと”を知っていたわけじゃないんだ。いいか、俺たちは……“このやり方しか知らなかった”んだよ。このやり方しか知らなかったから、教えてもらえなかったから、これが“正しいこと”だと信じて疑わなかった。だが、どうだ。会社を引退し、外の世界に出てみれば、俺たちが死ぬ気で守ってきた“伝統”など、何もしてはくれない」
「……」
「勘違いするな、槇原。俺は何もお前に、いい子になれなどと言いに来たわけじゃない。ただ、俺たちはどこかで、その“伝統”というものを生きながらえさせるために、利用されてきたんじゃないかということを考えてほしいんだ。お前の兄貴の……隆弘のような人間を俺たちは何人生み出した? 何人の人間を壊してきた?」
「それは……壊れた人間が弱かったからで……」
「槇原、違うんだよ。本当に弱いのは、俺たちの方なんだよ。偉そうにふんぞり返ってきた俺たちだが、実際は、“伝統”の奴隷じゃないか。“伝統”という化け物を生かすためだけに必死で働いてきた、いや、働かされてきた奴隷なんだよ。“伝統”が俺たちに殺しのライセンスを与えた。そして、“伝統”を拒絶する奴らをひたすらに破壊してきたんだ」
都筑はそう言って、また肩を落とした。
「こんなことを言っても、お前には何も伝わらないかもしれない。俺だって会社を辞めるまでは露ほども思わなかったことだ。いや、退職後何年間かは、勤務中と同じ気持ちだったよ。だが、こうして体を壊し、一人で老人ホームで過ごすようになったとき、痛感した。自分とは違う価値観で行きている人たちを目の当たりにし、そして、違う価値観を持つ同士が助け合いながら生きる様子を目の当たりにし、俺は絶望した。いいか、槇原。世の中にはいろいろな価値観がある。そして、別の価値観を受け入れられない人間は、苦しむことになる。……そういう人間を量産する“伝統”など、なくなった方がいい。俺は最近そういうことを考えているんだ」
「……」
槙原社長は口を半開きにし、信じられないという表情で黙っていた。
「いいか、槇原。俺はもう間に合わない。このまま、自分の人生を後悔しながら死んでいくのだろう。だがな、槇原。お前はまだ間に合う。お前自身が変われば、いいか、お前自身だけでなく、お前の部下たちの人生も変わるんだ。そのことを、頼むから一度、真剣に考えてみてくれないか」
(SCENE:055につづく)
児玉 達郎|Tatsuro Kodama
ROU KODAMAこと児玉達郎。愛知県出身。2004年、リクルート系の広告代理店に入社し、主に求人広告の制作マンとしてキャリアをスタート。デザイナーはデザイン専門、ライターはライティング専門、という「分業制」が当たり前の広告業界の中、取材・撮影・企画・デザイン・ライティングまですべて一人で行うという特殊な環境で10数年勤務。求人広告をメインに、Webサイト、パンフレット、名刺、ロゴデザインなど幅広いクリエイティブを担当する。2017年フリーランス『Rou’s』としての活動を開始(サイト)。企業サイトデザイン、採用コンサルティング、飲食店メニューデザイン、Webエントリ執筆などに節操なく首を突っ込み、「パンチのきいた新人」(安田佳生さん談)としてBFIにも参画。以降は事業ネーミングやブランディング、オウンドメディア構築などにも積極的に関わるように。酒好き、音楽好き、極真空手茶帯。サイケデリックトランスDJ KOTONOHA、インディーズ小説家 児玉郎/ROU KODAMAとしても活動中(2016年、『輪廻の月』で横溝正史ミステリ大賞最終審査ノミネート)。
お仕事のご相談、小説に関するご質問、ただちょっと話してみたい、という方は著者ページのフォームよりご連絡ください。