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なぜこんなツマラナイものにこだわるのだろう。そういう「ちょっと変わった人」っていますよね。市川さんはまさにそういう人。でもそういう人が今の時代にはとても大事。なぜなら一見ビジネスになんの関係もなさそうな、絶対にお金にならなそうなものが、価値を生み出す時代だから。凝り固まった自分の頭をほぐすために、ぜひ一度(騙されたと思って)市川ワールドへ足を踏み入れてみてください。
「最近、メチャクチャ怖かったこと」
田原総一朗さんってご存知ですか?
20数年前、僕が社会人として働きはじめて、経済に興味を持ち始めたのですが、その頃に『朝まで生テレビ』とか見ていたんですよね。
その田原総一朗さんを見て、「癖の強いゲストをファシリテートして、キレキレのツッコミをしていく、エネルギッシュなおっさんだなぁ、すごいなぁ」って印象を持ったんですよね。
最近なんですが、田原総一朗さんとひろゆきさん、成田悠輔さんとが対談動画している動画をたまたま観たんです。
1年くらい前の動画かな。
そこに映る田原総一朗さんを見て、びっくりしました。
「キレキレのおっさん」っていう印象とは真逆で・・・20数年という年月を経ればそうなるのも然りなんですが、切れも何もなくなっていました。
田原総一朗さん、もう90歳手前だそうで、それ考えるとすごいことなんですが。
でも、正直・・・「えー!歳とると、こんなんなっちゃうの!?(嫌だなぁ)」って思っちゃったんですよねぇ。
滑舌が悪くなるとか、筋力が落ちるとか、そういうのはもうしょうがないけど・・・
・相手の話を全く聞かない…
・聞いたと思ったら、全てを食い気味で批判する…
・質問しても、とりあえず自分の話したいことを話す…
・そして、同じ話ばっかりする…
・同じ話の中身は昔話…
・突っ込まれると、論理より感情ですかさず反応…
・当然、話が全く噛み合わない…
・加えて、メチャクチャ悪い滑舌のせいで、何を言ってるかわからない…
歳とると、こんな感じになっちゃうの!?って怖くなったんですよ・・・
((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
ものすごく優秀な方で、ズバズバ物言う姿に好感を持っていましたからなおさらショックで。
その対談では、田原総一朗さんの補聴器の問題もあって、会話が聞き取りづらかったようですね。
そういう身体機能の衰えも含め、あの田原総一朗さんが・・・と僕には衝撃でした。
「老いる」とはこういうことなんでしょうね。
全盛期に憧れをいだいた方の「老いる」姿ってそんなに見たくないですよね。
両親が老いるのもショックですよね。
まぁ、田原総一朗さんの場合、90歳手前ですから、自ら歩いてスタジオまで来て、確たる意見を持って、持論を述べられるってことが驚異的ですが。
もしかすると、「定年」というある種の強制退場の制度って大事なのかもしれませんね。
定年が引き上げられていくと・・・当然、そうした方の老いてしまった方も一線に出続けざるを得ない状況になります。
その一線に置かれている椅子の数に限りがあれば、若手がその椅子に座るのも困難でしょう。
強制退場があれば、有無を言わさず新陳代謝も行われますから。
それは会社にも言えることですよねぇ。
我々の仕事をする体力は落ちていくでしょうから、引き際みたいなのを見極めて、後進を指導していく側に立つのって大事だな、と。
しかし一線に出続けた側からすると、後輩たちの仕事には色々粗が見えて、結局自分でやっちゃうんですよね。
「結局自分でやっちゃう」という、「一線に出続ける」を選択すると、一線の椅子に空きができませんから、後進育成はできません。当然、新陳代謝もありません。
引き際の目安とは何か?って思うんですよね。
結局、「昔話が多くなる」ことかなって。
つまり、新しいことをやっていないから、最近のネタが無いんですよね。
それに、昔を知らない人に対しては、マウント取れて気持ちいいですしね。
・・・盛大なブーメランが自分に返ってきているのを感じますねぇ(汗)
ところが、人口が減っている日本において、若い世代が激減していますから、一線に出続ける必要もあるのでしょうかね・・・
田原総一朗さんの著書で『堂々と老いる』というのがありますが、引き際を越えていると理解しながらも、一線に出続けていることを自覚しているようなタイトルですね。
そう考えると、「先輩・・・なんか、すいません」って申し訳なく思えてきます。
著者/市川 厚(いちかわ あつし)
株式会社ライオンハート 代表取締役会長
https://www.lionheart.co.jp/
LH&creatives Inc.(フィリピン法人) CEO
https://lionheart.asia/
<経歴>
三重県の陶芸家の家に生まれる。
(僕が継がなかったので、父の代で終焉を迎えることになる…)
大学時代、遅めの中二病を発症。経済学部に入ったのに、何を思ったか「ファッションデザイナーになるんや!」と思い立ち、大学を中退。アパレル企業に就職。
ところが、現実は甘くなく、全く使えない僕に業を煮やした社長から、「Webサイト作れないとクビだからな!」と言われ、泣く(T_T)パソコンの電源の付け方も知らなかったけど、気合でWebサイト制作を習得。しかし、実際のところは、言い訳ばかりで全く成長できず・・・怒られて、毎日泣く(T_T)そんな頃、「デザインにも色々ある」と改めて気づいて、広告業界へ転職、広告制作会社のデザイナーとしてのキャリアをスタート。
「今度は言い訳をしない!」と決めて仕事に没頭し、四六時中仕事していたら、黒目がめくれ上がってきて、眼科医から「失明するよ」と言われ、ビビる。2004年勤務先で出会った同僚や友人を誘って起業、有限会社ライオンハートを設立(現 株式会社ライオンハート)。ところが、創業メンバーとあっさり分裂、人間不信に。残ったメンバーと再スタート。
2014年、設立10周年を機に、創業メンバーで唯一残っていた人間を日本法人の社長にし、自身は会長になり動きやすい状態を創る。この頃からブランディングエージェンシーを名乗り始める。
2016年、フィリピン(マニラ)にITアウトソーシング企業(LH&creatives Inc.)を設立。設立準備期間から家族とともに移り住み、フィリピンで3年半を過ごす。
フィリピン人マネジメントを通して、猜疑心の塊になり、性悪説に変わる。
2019年6月、日本に帰国し、日本法人のマネジメントに復帰。社内コミュニケーションを充実させるために席替えしたり、誰も掃除しない椅子をきれいにしたり、「眠いときはしゃべった方が良いよねッ」ってスタッフに話しかけながら仕事をするなど、独自のインナー・ブランディングの理論を実験していたところ、会社の調子が上がった。そもそもブランディングってなんだ?と思っていたところに、BFIの安田さんと出会い、勝手にご縁を感じてコンサルを受けてみる。そしたら安田さんに誘われ、2020年、anote konoteに参加することに。