経営者のための映画講座 第47作『ゆきゆきて、神軍』

このコラムについて

経営者諸氏、近頃、映画を観ていますか?なになに、忙しくてそれどころじゃない?おやおや、それはいけませんね。ならば、おひとつ、コラムでも。挑戦と挫折、成功と失敗、希望と絶望、金とSEX、友情と裏切り…。映画のなかでいくたびも描かれ、ビジネスの世界にも通ずるテーマを取り上げてご紹介します。著者は、元経営者で、現在は芸術系専門学校にて映像クラスの講師をつとめる映画人。公開は、毎週木曜日21時。夜のひとときを、読むロードショーでお愉しみください。

『ゆきゆきて、神軍』に見るドキュメンタリー作家という生き様。

元陸軍の軍人であった奥崎謙三を主人公に据えたドキュメンタリー映画である。監督は日本のドキュメンタリー映画界で異彩を放つ原一男だ。

奥崎謙三は戦争中に、上官の理不尽な部下殺害事件を目撃したとして、徹底的な反国家、反体制の姿勢を崩さない。昭和天皇の一般参賀ではゴムパチンコ3発を放ち、裁判では小便を撒き散らす。そんな男に興味を持った原監督は、16ミリカメラを持って奥崎を追い続ける。

同じ反体制の思想を持つ男の結婚式で、自らの犯罪歴を披露しながら仲人を務めるところから映画は始まる。ここで、すでに作品は不穏な空気を孕んでいるのだが、原は自らカメラを回しながら少しずつ奥崎に近づいて行く。

ドキュメンタリー映画の不思議なところは、作り手と対象者が次第に同化して行くところだ。ほとんどのドキュメンタリー映画で、作り手である監督は、取材対象者を知れば知るほど同じ位置に立ち、時には彼らよりも前に立って道を拓こうとする。それが、作品のエネルギーを産むこともあるし、作品を独りよがりなものにしてしまうこともある。

しかし、『ゆきゆきて、神軍』の主人公である奥崎謙三はそれを許さない。陸軍の元上官を見つけ出し、当時の罪を弾劾し、殴りかかり蹴りつけるところになると、原のカメラは明らかに狼狽えている。作り手の意思などを明らかに上回る力に突き動かされて、奥崎は動く。原はそこについて行くだけで精一杯だ。

『ゆきゆきて、神軍』の見どころは、奥崎の予断を許さない行動と、映画を利用しようとする狡猾さだ。おそらく、原は撮影を始めたもののどこで終わればいいのかが見えなくなっていたはずだ。

事実、映画は奥崎が逮捕され塀の向こうへ行くところで終わる。そして、作品が公開され、ドキュメンタリー映画としては異例の大ヒットを飛ばす。シャバに戻った奥崎はスターとなった。

数年前、原一男監督のドキュメンタリーがテレビで放送されたのだが、その中で「奥崎さんから何度も続編を作ってくれ、という連絡があった」と原は語っている。原が奥崎を撮ることで人生を変えたように、奥崎も映画によって人生を変えられたのだ。それは、それぞれの狡猾さでコントロールできるようなものではない。

テレビ番組の中で、原はすでに亡くなっている奥崎の墓を探す。墓は見つからない。墓があったであろう場所だけが見つかり、原はそこに花を手向けて「奥崎さん、映画一本できたんだから、それで良しとしてくださいよ」と言うと泣き崩れる。

原一男の作品を見ていつも思うのはドキュメンタリー作家という仕事の業だ。人を見て、そこに自分を見つけていく。さらにそんな自分自身に別の自分をぶつけることで、目の前の人々から新しい何かを引き出して行く。

おそらくどんな仕事も、根本は同じはずなのだが、原の作品の場合は対象を選び方がシリアスなだけに、撮影が終わってからも気持ちが完全に離れることはないのだろう。何という恐ろしい仕事だろう。

著者について

植松 眞人(うえまつ まさと)
兵庫県生まれ。
大阪の映画学校で高林陽一、としおかたかおに師事。
宝塚、京都の撮影所で助監督を数年間。
25歳で広告の世界へ入り、広告制作会社勤務を経て、自ら広告・映像制作会社設立。25年以上に渡って経営に携わる。現在は母校ビジュアルアーツ専門学校で講師。映画監督、CMディレクターなど、多くの映像クリエーターを世に送り出す。
なら国際映画祭・学生部門『NARA-wave』選考委員。

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