泉一也の『日本人の取扱説明書』第32回「曖昧味の国」

泉一也の『日本人の取扱説明書』第32回「曖昧味の国」
著者:泉一也

このコラムについて

日本でビジネスを行う。それは「日本人相手に物やサービスを売る」という事。日本人を知らずして、この国でのビジネスは成功しません。知ってそうで、みんな知らない、日本人のこと。歴史を読み解き、科学を駆使し、日本人とは何か?を私、泉一也が解き明かします。

I my me。英語では人称を「主格」「所有格」「目的格」と変化させる。なんとも「私」にこだわる言語である。日本語では、そんな変化はさせない。というより「誰が」という人称を書かないことの方が多い。「誰が」といったことをはっきりさせない曖昧さがある。この曖昧さを曖昧味と呼ぼう。

曖昧味は人称を特定しないので、無責任を生み出す。義務と権利を主体とするこの責任社会に日本語は合わない。なので、英語を主にしたくなる。義務教育では英語が必修あり、大学受験では英語が必須科目であり、会社では昇格条件にTOIC何点以上!というのがあるように。

義務と権利の責任社会を作ったのは日本人ではない。西洋発祥で西洋から輸入したのだ。日本は元々ご恩と奉公の封建社会であったが、ある時西洋の責任社会へとガラリと変えた。そのため、社会構造と日本語が合わなくなった。たとえば、日本語の「お茶が入りました」に人称がなく「その場」を感じる表現が自然であるが、責任社会では「私があなたにお茶をいれました」と人称を明らかにしてお茶を差し出す。人称表現はなんとも気持ち悪い。

この気持ち悪さを感じたなら、日本人のDNAを持っている。もっというとご恩と奉公の社会が肌に合っている人であろう。封建社会とは自由も平等もない遅れた社会だという刷り込みによって、ご恩と奉公の価値は義務教育で学ばない。ご恩と奉公の世界では人称のない曖昧味は「いい味」になる。紐解いていこう。

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