泉一也の『日本人の取扱説明書』第93回「ツッコミの国」

泉一也の『日本人の取扱説明書』第93回「ツッコミの国」
著者:泉一也

このコラムについて

日本でビジネスを行う。それは「日本人相手に物やサービスを売る」という事。日本人を知らずして、この国でのビジネスは成功しません。知ってそうで、みんな知らない、日本人のこと。歴史を読み解き、科学を駆使し、日本人とは何か?を私、泉一也が解き明かします。

日本のお笑いと海外の笑いの最大の違いは「ツッコミ」である。

チャップリン、ミスタービーン、ジムキャリーが登場するコメディ映画や番組では、ボケが主体でツッコミという存在がほぼない。ツッコミは観客一人一人が心の中でツッコムか、もしくはボケた本人が自分にツッコムかどちらかである。

つまり海外はボケが主体で、ツッコミ役がいない。

日本のお笑いを豊かにしているのは、ボケとツッコミが凸凹のごとくセットになっていること。落語は一人何役も演じながらボケとツッコミをし、漫才では二人で役割分担をする。

そういう意味では、ボケが主であるピン芸人「ゆりあんレトリィバァ」は海外が活躍の場かもしれない。彼女が米国のアメリカ・ゴッド・タレントというお笑いオーディション番組に出場してバカ受けした理由がわかるだろう。

海外ではツッコミは観客がそれぞれ心の中でする。日本ではツッコミ役がいる。この違いはどこから来ているのか。

ツッコミは代弁である。ボケは非常識なので、周りにストレスを与え、緊張と怒りを生み出す。その緊張を緩和し、怒りを許しに変えるのがツッコミである。

学校のクラスにいただろう、天然ボケの人。発言が非常識、行動が非常識。周りが我慢しながら守っているルールや常識をさらりと逸脱してしまう。そういう天然ボケの存在は、緊張と怒りを周りに生み出すので攻撃されやすい。つまりいじめの対象になるのだ。その天然ボケの存在が生み出した緊張を緩和し、怒りを許しに変える「視点」を与え、「笑い」に変えるのがツッコミである。

これを関西では「いじる」というのだが、「いじめ」とは紙一重。「いじめ」では無理やり激辛カレーを食べさせて、苦しむという非常識な役割をさせて、相手を嘲笑する。「いじる」は、毎日カレーを食べるような異常な人に「カレーなる一族の者か!」といったストレス発散のツッコミを入れる。

そのツッコミを入れるタイミングと言い放ち方が大事なのだが、緊張がピークになったときに「常識人たちの代弁の言葉」を放つのだ。落差が大きいほど笑いが大きくなる。ツッコミ役は、一般常識を知りながらも、常識人たちが緊張し、怒るツボを知っておく必要がある。そのツボをつくことで、笑いが起こるわけだ。「笑いのツボ」という言葉があるが、そういう理由である。

ということは、ツッコミ役は日本では貴重な存在なのだが、下手をするとハラスメントになるリスクがある。ツッコミの技術が低いと「いじめ」になるが、技術が高いと笑いになる。ダウンタウンの浜ちゃんが司会となって大物芸能人たちを手玉にとれるのは、ツッコミ技術が高いからだ。おそくら松ちゃんの究極のボケにツッコミを入れる場で技術を磨いたのだろう。

企業ではハラスメントの研修会がたくさんあるが、「これはダメ、あれはダメ」というのではなく、「これを笑いに、あれを笑いに」というツッコミの視点を学び、タイミングと言い方を学習した方がいい。これが日本式である。

日本の文化はボケとツッコミという凸凹が、陰陽のチームになって補完し合う。その補完しあう関係性が「和」なのだ。聖徳太子にツッコミをいれたい。和をもって尊しとなすは、ボケとツッコミをもって尊しとなすやないかい!と。和などというから日本は「なーなー文化」になってしまったやないか。全部、聖徳太子が悪い!

著者情報

泉 一也

(株)場活堂 代表取締役。

1973年、兵庫県神戸市生まれ。
京都大学工学部土木工学科卒業。

「現場と実践」 にこだわりを持ち、300社以上の企業コーチングの経験から生み出された、人、組織が潜在的に持つやる気と能力を引き出す実践理論に東洋哲学(儒教、禅)、心理学、コーチング、教育学などを加えて『場活』として提唱。特にクライアントの現場に、『ガチンコ精神』で深く入り込み、人と組織の潜在的な力を引き出しながら組織全体の風土を変化させ、業績向上に導くことにこだわる。
趣味は、国内外の変人を発掘し、図鑑にすること。

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