第193回「日本劣等改造論(25)」

このコラムについて

日本でビジネスを行う。それは「日本人相手に物やサービスを売る」という事。日本人を知らずして、この国でのビジネスは成功しません。知ってそうで、みんな知らない、日本人のこと。歴史を読み解き、科学を駆使し、日本人とは何か?を私、泉一也が解き明かします。

 ― 寂しい日本人(前編)―

人は深いところで寂しさを感じている。

寂しさはどこから来るのかわからない。正体不明の感情を紛らわそうと他の何かに意識を向ける。仕事だったり、趣味だったり、嗜好品だったり、時には依存症になるぐらい没頭する。寂しがり屋は人間という「ざんねんないきもの」の特徴を際立たせている。

フロイト(神経病学者であり精神分析の創始者である)の、弟子であるオットー・ランクは「バーストラウマ」を提唱した。1対0で迎えた9回裏、1塁にはファーボールで出塁したランナー。あと一人押さえたらノーヒットノーラン達成なのに、4番バースに特大ホームランを打たれ、あっけなく完敗。そのショックからノーコンになったピッチャーの精神分析のことではない。

人はこの世の誕生(バース)にむけて、温かい羊水のプールにふわふわと揺れながら、栄養も充分、母の鼓動も聞きながら、愛に満ちた10ヶ月の子宮生活を過ごす。突如、なんの予告もなく強制退去。それも母を苦しませながら、最後はへその緒という命綱をバッサリと切断されてしまう。とどめには「呼吸しろ!」とお尻を叩かれる。この「分断によって孤独になった」というショック体験によって、心の奥深くに刻まれた傷がバーストラウマである。

愛が分断され、孤独になる恐怖。愛→分断→孤独→怖れ→歪んだ愛。この歪んだ愛が「寂しさ」となって人を苦しめる。この歪んだ愛はストレスなので、忘れようと寂しさを紛らわせる「代償行為」をとる。代償行為の度が過ぎてしまうと身を滅ぼすことに。スケジュールがいっぱい入ってないと不安になったり、忙しいんですよねーと嬉しそうに言う人は黄色信号である。

紛らわせるのではなく、寂しさに面と向き合っていくと、歪んだ愛がたくましくて美しい愛に進化する。サナギの愛から美しい蝶になるがごとく。殻にこもったドロドロ状態のバーストラウマは変態化するのだ。では、寂しさに向き合うってどういうことなのか。

それは、ルーツを知り、決別を知ることである。かっこよく言うと、生を学び、死を想うこと。死生観とも言われたりする。その一つに自我の根っこにある日本人としてのルーツを学び、日本人としての死を想うことがある。今、日本人は、先祖代々慣れ親しんだ日本列島に住んでいるので、ルーツを学ばなくても、身近に昔から馴染んだ四季折々の自然があり、和食があり、神社仏閣があり、伝統行事があり、多くの昔話があり、なんといっても日本語に満ち溢れている。

もし国を追われて難民にでもなったらルーツを学び始めるのかもしれないが、そんな必要に迫られてないので、ルーツを学ばなくても問題は生じない。であるが、自分を自分であらしめている「アイデンティティ」の根っこに日本人がある限り、ルーツを学ばないままだと歪んだ愛のストレスに追われ続ける。かわいい寂しがり屋さんではなく、困った寂しん坊なのだ。

日本人は、平和で物質的に恵まれているのに、諸外国と比べて自己肯定感が低く、幸福感も低いのは、アイデンティティが揺らいでいることが原因ではないか。だからといって、日本民族は世界一優秀だ!なんて、優越感に浸ることはなんの解決にもならない。これを優生思想というが、この思想は排他性や争いを生み出す原因なので、返って弊害である。愛とは相対価値ではないから、比較の世界に答えはない。

「困った寂しん坊」から「かわいい寂しがり屋さん」ぐらいにはなりたいものなので、後編では、もうちと寂しさに面と向かってみよう。

 

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著者情報

泉 一也

(株)場活堂 代表取締役。

1973年、兵庫県神戸市生まれ。
京都大学工学部土木工学科卒業。

「現場と実践」 にこだわりを持ち、300社以上の企業コーチングの経験から生み出された、人、組織が潜在的に持つやる気と能力を引き出す実践理論に東洋哲学(儒教、禅)、心理学、コーチング、教育学などを加えて『場活』として提唱。特にクライアントの現場に、『ガチンコ精神』で深く入り込み、人と組織の潜在的な力を引き出しながら組織全体の風土を変化させ、業績向上に導くことにこだわる。
趣味は、国内外の変人を発掘し、図鑑にすること。

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