15年以上、ひとつのところで毎日似たようなことをして、
それを生業としております。
それが良いことなのか悪いことなのかはわかりません。
進歩的でなければ人間の仕事ではないという思想からみれば
これは価値のない所業ということになるでしょうし、
「いつも行くラーメン屋」のごとく、
決まったクオリティを提供できることに一定の意味を見出すのであれば
捨てたものでもないのでしょう。
ただ、ラーメン屋さんの場合は
ファンからすると変わらないこと自体に愛すべき理由があるわけですが、
わたくしが従事しています事務仕事というのは
変わらないことを良しとされることはまあありえないわけで、
というか経営者の方の視点からいえば
従業員には当然日々改善に前向きであってほしい、あるいはぶっちゃけ、
新しいシステム導入したらこいつら消すことできねえかな、
と思っていたってなんら不思議ではありません。
そんな愛されざる存在、事務仕事ですが、
少し距離を取って眺めてみると
ある作業はひとつのフェーズの完成形として行きついたものであることに気づきます。
たとえば、
製造業の会社で、現場のある加工工程において、
その企業の環境、コストや効率、品質などの要素をバランスした結果として
固有の設備、人員、運用が成立するように、
事務仕事もあれやこれやのプロセスを経て今にいたる、という出来事の
集まりで成り立っているのです。
いいかえればそれは
製造ラインのたくさんの金型で何度となくプレスされて完成した
ひとつの部品のようなものです。
ルーティンのようになっている作業にも
もともとは経緯や求められる結果の根拠があり、
ミスがないとか作業が早いとかいうことは、その前提のうえで
必要とされている部分的な要素だということです。
(あたりまえですが)
こんな当然の理屈をわざわざ申し上げるのは、
どんな定型仕事も最初は意味があって生まれるということが、
意外と正確に認識されていないように思われるからです。
現場のベテランがとにかくあらゆる変化に抵抗する、
ということはどこにでもあることですが、
一方で改革を持ちこむ側が、変えようとする対象をプロセスまで掘り下げて
理解していることもまれであるように思われます。
(むしろ、イーロンマスクのように片づけるのが理想と思われているのかも)
いずれの立場にしても、
仕事に本当の意味で価値を付与するのであれば、
「よく知らないものに対する理解」という、人間がまず感情的にイヤがる行為に
向き合わざるをえないのではないか、と思うのです。