サラリーマン業をやっていますと、場所や時勢を問わず、起こる出来事に通底する一定の法則があるように思うときがあります。大したことではありません。
人が離職する理由の根本は人間関係だとか、だれかが役職へ就くのはそれにふさわしい人がいるからではなく、そのとき席が空いたからだ、とか、そんなようなことです。
そのうちの一つで、これは否定されることがあるやもしれませんが、
「組織というものは原理的に反省をすることができない」
というものが、少なくとも個人的にはございます。
そもそも、組織、会社というのは営利集団です。儲けるため、競争で勝つための「改善」は生きていくため日々当然取り組むべき行動ですが、「反省」というのはまあ、ネガティブな要素です。
世の大きな会社様が事件や不祥事があって「反省」を表明される。
それは、そうしないと世間での立ち位置をさらに悪くしてしまうからです。
できるならやらないにこしたことがないこと、それ自体がメリットを生むものでもなければ、わざわざイヤなことに取り組まないのは生理的反応として妥当なのです。
一方で、「罪を憎んで人を憎まず」などという言葉もあります。
客観的に事象として悪いものを組織の中に発見し、それを除去していく、ということならば、これには合理性があり、長期的にはメリットにもなりそうです。
内部告発制度のように、それを仕組みとして実現しようとした例も、いくらかあるようではあります。ただ同時に、「余計なことをするな」という反発を生むものでもあります。
会社や組織の中にある「罪」を直視して、それを公平に裁くのは、ずいぶん難しいことであるように思えてなりません。
おそらく、「ここが腐ってまっせ」と声をあげた人が「よく知らせてくれた」と褒美を与えられたことはいまだかつてないでしょうし、そういう人こそ「罪人」にさせられてしまう方が現実的にはありそうです。
意図として「罪を憎もう」としても、行為としては「人を憎む」形で表出せざるを得ないのではないでしょうか。
というわけで、人が大勢集まると、その集団は反省なんかできないし、悪いのはたぶん特定の個人でありつづけるのです。