その179 無駄

ホリエモンが「寿司屋になるのに修業は不要」と言ってバズったのは2015年だそうです。

そこから、当時各方面で湧き上がった論争はもちろんのこと、後日ご本人も関連ビジネスにからんでいくなど、その後の展開と波及の大きさからいってもこのネタは(寿司だけに)稀にみる傑作だといえるでしょう。

この話のおもしろいところは、単に寿司の修行の是非のみならず、多方面に応用できる問いだてができるところだと思います。

新卒の新入社員がいたとして、今日びいきなり過度なタスクを与えることは少ないかと思いますが、一方で「しょうもない」雑用ばかりを振られていたらどうでしょうか。

というか、特別に未経験者を育成するメソッドを持っているでもなく、入社して短い研修期間が過ぎたらあとはOJT、みたいな規模感の会社組織であれば、新入社員が配属された先で
雑用を年単位でやることになるのはおかしなことではないでしょう。

社会がAIがなんでもやってくれるような雰囲気にある中で、当人が
「ずっとこんな無駄なことやらされてていいのか……」
と悩みはじめたら、これすなわち寿司修行の「飯炊き三年、握り八年」と同じ話になるわけです。

ここで一般的な「正解」は、おそらく下記のようなものかと思います。

……機械的な行為の繰り返しのような、「作業」はたしかに無駄である。
しかし、作業の過程や周辺のどこかに進歩や成長のヒントは隠れている。
それを見つけることができるかが、キャリアの成否を分けるのだ。……

実際、世間では、ある仕事について大成する人もいればそうでないこともあり、その違いが修行(成長)期間の差によるところが大きいのは事実です。

逆にみれば、大成する人でも多くが修行というプロセスを踏んでいます。
特別に優秀な人で、必要なエッセンスを摂取するためにあえて短期間だけ現場に身を置く方もいらっしゃいますが、そういった例外を除けば、やる気をふくめてほとんどが同じスタートラインから始まっているわけです。

ただここで、労働力と賃金を交換して時間を費やしてしまうか、自分の中にたしかな資本を貯めていくか、その差を生むのは、じつは修業が「無駄だからこそ」ではないかと、個人的には推察いたします。

無駄が明白だからある人にとっては危機感を生み、そこから抜け出るための努力を強制的に起こさせ、それが長期的な何かにつながる。

修行論争では「無駄かどうか」が焦点でしたが、一般的な人間が置かれる環境には「わかりきった無駄」こそがむしろ必須ではないか、と思わざるを得ないのです。

これもまあ、無駄話ですけど……

 

 

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著者自己紹介

「ぐぐっても名前が出てこない人」、略してGGです。フツーのサラリーマン。キャリアもフツー。

リーマン20年のキャリアを3ヶ月分に集約し、フツーだけど濃度はまあまあすごいエッセンスをご提供するカリキュラム、「グッドゴーイング」を制作中です。

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