「メガネは顔の一部です。」
という
メガネ屋さんの有名なキャッチフレーズをご存じの方となると
おそらくお若い方ではありますまいが、
この言葉は子どもの頃のわたくしには
少々大げさに申しますと
「呪い」のように作用したものでした。
成長期の手前とか
そのあたりのタイミングでわたくし目が悪くなりまして、
多くの人が体験された心境ではないかと思うのですが、
もうひどくかなしい気持ちになったものです。
金属やらプラスチックやらでできている
へんてこな人工的な器具に死ぬまで厄介にならねばならない。
へんてこなのもいやでしたが
なにより
死ぬまで
というのがたまらなくかなしいのでした。
「メガネは
オマエが死ぬまで
顔の一部です。」
…って、
なんかもう、すごくかなしくないですか。
もちろんメガネ屋さんのせいではありませんが。
まわりの友だちを見ると
ちょこちょこメガネをかけた子が出はじめていましたが、
実際、ときどきメガネを外したところを見ると
素顔というよりむしろ
顔からすぽっと何かが欠けているように思えてなりませんでした。
<メガネをかけている人間の顔は、メガネがあってはじめて成立している。>
その呪いが消えたのは、
それからはるかな時が流れ
世の中で台頭したファストなメガネチェーンがすっかり定着したりして、
自分もいつの間にか何本かのメガネを所有していたころでした。
持っていたメガネはレンズ度数がぜんぶ同じ、
つまり実用ではあるがファッション目的のもので、
そんなある日に気づいたのでした。
いま、メガネが自分の付属品にすぎないことに。
重要なのは、選べることでした。
特定の何かがなくては自分がやっていけない状態であるかぎり
おのずと束縛され、息苦しい関係になってしまう。
選べるからこそ自由になれる距離を得られ、
なんなら好きになることもあるかもしれない。
今日はどれにしようかと選ぶ対象になったとき、
顔の一部として分かれがたく顔面にからみついたメガネはぽろりと外れて
親しい間柄の生活の道具にもどったのです。
とはいってもわたくしの場合、
目が悪すぎて起きている間はメガネなしではなにもできないのでした。メガネメガネ。