その116 国の宝

先日、通勤途中に幼稚園児らしき子どもを見かけました。
お父さんに手をつながれて、はた目にもぱりっとしたスモックを着ている姿を見て
「こういう感じをたとえて子どもは国の宝というのか…というか今いうのか?」
と独りごちて後でぐぐりましたら、
やっぱり今はあんまりそういうこと、いわないみたいですね。

昔に政治家がそれで噛みつかれたりしたこともあったみたいですが、
そういった表現が好かれない理由は、まあ、わかる気がします。

かつて、同じように政治家の講演で「産む機械」という言葉が使われたときに
大炎上したことは、みなさまも憶えておいででしょう。
内容的には、政治家らしく、わりと一般的な統計上の話を大雑把に、
かつデリカシーなく言ったこと以上でも以下でもなかったようですが、
とにかく天井知らずの炎上っぷりでありました。

振りかえれば、アレで問題だったのは、
発言の「切り取り」が行われたことや、政治家の公的な立場以上に、
「デリカシーのなさ」が「デリカシーゼロすぎた」からではないかと思うのです。

子どもというワードは、昨今なかなかデリケートです。

たとえば、国内の世帯年収平均の話をしたとして、それに
「うちより〇〇円も高い…自分のことを貧乏人だとディスってるのか」
と、怒りだすひとはいないと思いますが、
子どもの話はそうではないようで、
「自分ごと」にしてしまうきらいがあるようです。

ちょうど最近、去年の出生率が発表され、
ボージョレヌーボーが毎年最高の出来であるかのごとく
今年も最低値が更新されたとニュースになっていました。
ニュースでは、事例として、30代の共働き3人家族への取材で
最初の子どもの子育ての過酷さを考えると二人目はとても考える余裕がない、
といっているところが紹介されていました。

これはあくまで、ある家庭の場合、なのですが、
本題のマクロのトピックにパーソナルな事例がつなげて扱われていました。
ニュースを作ったメディアの意図の問題というより、
そういう物語として語った方が広く受け入れられることを
構成する側もおそらく理解しているのです。

子どもは国の宝、といわれてちょっとイヤな印象になるのは、
特定の、人間としての(特に自分の)子どもを指して
優秀な労働力や経済の担い手になることを期待されているような気分になり、
ウチの子どもはそのためにいるのではない、と反感を覚えるからでしょう。

でも、おうちの子どもと1.2億人の社会における子どもは
そもそも根本的に、概念上、まったく違う存在なのですよね。

 

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著者自己紹介

「ぐぐっても名前が出てこない人」、略してGGです。フツーのサラリーマン。キャリアもフツー。

リーマン20年のキャリアを3ヶ月分に集約し、フツーだけど濃度はまあまあすごいエッセンスをご提供するカリキュラム、「グッドゴーイング」を制作中です。

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