その128 自責

学校で一応ひと通りの教育を受けてきたつもりでも、
社会に出てから急に目にする言葉というものがあります。

「ざっくり」とか「エビデンス」とか、
業種業態によりいろいろだと思いますが、要するにビジネス用語です。
中には、そんな言葉もともと日本語にあるのかな、という、
ビジネスのために作られた造語のようなものもあります。

たとえば、「自責」は「自責の念」のように一般的に使えますが、
「他責」はこれ、ビジネスマインドについて語るために
さらっと後から作ったんじゃないかと。

そして「他責」とセットになることで
「自責」も単純に自分が悪かった、という意味をこえて
「物事に対して責任感を持ち、自分のこととして捉える精神」
という、新たなニュアンスが付与されて使われています。

たしかに、人の行動、心構えを評価するにあたり
この言い方はけっこう便利です。

世間を見渡しても
立派な人、成功している人というのは大抵の場合
自責マインドをがっちり装備していて、
立派でない人、うまくいってない人に限って
ぐちっぽく、他責マインドを発揮していることが多いようです。

自責か他責かの二者択一を人にあてはめることで
だからこの人は結果が出ている、あるいは出ていないのだと分類してしまって、
あながち間違いといえない面もあります。

ただ、ビジネスの心構えとしては
かなり理にかなっているような自責と他責ですが、
絶対的な弱点があるのではないか、と個人的に感じるところもございます。

それは、
「口にしてしまった瞬間、説得力が激落ちする」
ことです。

たとえば、組織内で、上位者が下位者に「自責でなくてはいけない」と説く。
その瞬間、ヒエラルキーを使ってなにかを「押し付けた」ような空気が生じます。
責任を自分のものとして感じなくてはいけないという話をしているときに
その考え方自体が押し付けられたものでは、
まあ、台無しといわないまでも効果はイマイチです。

実際、
「言い訳すると他責だって怒られるからな……」
という台詞を何度か耳にしたことがありますが、
こうなるとなんのための「自責」なのかということになります。

そもそも、自責の意識とは経験などから自分の中で起こるパーソナルな変化、
「気づき」の一種なのでしょう。

自責という概念は価値をもたらしやすいものかもしれませんが、
「あるべき論」につながってしまうと、陳腐な説教になってしまうのです。

……だから、逆に、わたくしくらいのレベルの者が
「他責で大丈夫。自責には意味がない」
と力説したら、これはもう説得力あるんじゃないでしょうか。

 

 

この著者の他の記事を読む

著者自己紹介

「ぐぐっても名前が出てこない人」、略してGGです。フツーのサラリーマン。キャリアもフツー。

リーマン20年のキャリアを3ヶ月分に集約し、フツーだけど濃度はまあまあすごいエッセンスをご提供するカリキュラム、「グッドゴーイング」を制作中です。

感想・著者への質問はこちらから