いつの世も、会社や組織をやめていく人の多くは「若い人」です。
そして、やめていく若い人の動機はほぼ、2つです。
「環境がイヤだから」か「もっとやりたいことがある」。あれこれ言っても、つまるところこの2つ以外の理由はないのだと思います。
前者の場合、本人が口にするかどうかはその人次第ですが、仕事内容が合わないとか給与が低すぎるとか人間関係が地獄だとかいった「イヤ」の事由は、まさに退職理由の花形といえるでしょう。
一方、「やりたいことがある」系は、若い人の特権というべきものです。たとえば、わたくしのような定年が見えている年代の人間がそんなことを口走ったら、まず「親の介護か?」と返ってくることでしょう。
実際、若くない人の退職理由が若い人と違うのは、そういった「やらなくてはいけないことがある」に起因することが多いことにあるわけですが……
さて、今がイヤだからにせよ、やりたいことがあるからでも、そういう若い人が求めているのはおおむね精神的充足、通称「やりがい」といわれるものです。
そして、「やりがい」といわれるコトバは、なんとも正体がつかめないものです。
ブラックな環境でも毎日楽しくて夢中なのかもしれないし、人がうらやむ世界にいても虚しさを感じているかもしれない、自分の心によって価値があったりなかったりするものです。
いいかえれば、究極の主観によって判断されるものです。
自然に考えれば、会社や組織をやめたりやめなかったりするのは主観的判断ですから、同じように「やりがい」も主観で決めることができる……というのが、結論すれば「やりがい」を求める人が陥る
「罠」
でないかと思っております。
「やりがい」派の人のほとんどが、楽しくて夢中になれるものを欲しているはずです。
その気持ちはたしかに、その人の中にしかないものです。しかし、「やりがい」を感じるまでには、新たに周囲にさまざまな人的、物的な「環境」が必要になります。
そして、その環境はやめていった会社と同じく、すでに他者たちによって築かれているものなのです。
「環境はガチャだけど、どう受け取るのかは自分次第です」
といわれて、本当にガチャを引きにいっているのが「やりがい探し」の実情ではないでしょうか。