このコラムについて
経営者諸氏、近頃、映画を観ていますか?なになに、忙しくてそれどころじゃない?おやおや、それはいけませんね。ならば、おひとつ、コラムでも。挑戦と挫折、成功と失敗、希望と絶望、金とSEX、友情と裏切り…。映画のなかでいくたびも描かれ、ビジネスの世界にも通ずるテーマを取り上げてご紹介します。著者は、元経営者で、現在は芸術系専門学校にて映像クラスの講師をつとめる映画人。公開は、毎週金曜日21時。週末前のひとときを、読むロードショーでお愉しみください。
『お早よう』に見る家族と仕事。
小津安二郎の『お早よう』という作品をご覧になったことはあるだろうか。昭和三十年代の東京の下町を舞台に、テレビを買うか買わないかという小さな問題に揺れる家族を描いた小さな傑作である。
テレビ、洗濯機、冷蔵庫が三種の神器と言われた高度経済成長期。しかし、どの家庭にもテレビがあるというわけではない。近所の家にテレビを見に行くということも当たり前に行われ、街頭テレビもまだ残っていた時代だ。大人だって本音ではテレビがほしい。しかし、まだまだ高い。そんな時、新聞に掲載された『テレビは一億総白痴化の元凶』などという言葉で、テレビに対する抵抗感を示す大人も数多くいた。
しかし、子どもたちはそんな大人の事情にはおかまいなしだ。ただ相撲が見たい、野球が見たいという欲望のままテレビをねだる。笠智衆扮する父親も、子どもたちから「テレビ、買ってくれよ」という毎日の叫びに困り果て、ある日、とうとう叱りつける。「お前たちは、余計なことばかり言う。少しは堕まっとれ、うるさい!」。そう言われた子どもたちは思わず反抗的な言葉を投げつける。「何が余計だい。大人だって余計なことばかり言ってるじゃないか。あら、おはようございます。こんにちは。どこまでお出かけ? ちょっとそこまで。余計なことばっかりじゃないか」と一歩も引かず、最後に「ああ、わかりましたよ。もう口きかないよ」と宣言し、だんまりストライキが始まるのだ。
翌日から、子どもたちは徹底的に口をきかない。家でも話さないし、学校でも一切言葉を発しない。これがまた余計な誤解を生み、大人たちを混乱させドタバタ喜劇の様相を見せていく。しかし、笠智衆扮する父親が最終的にテレビの購入を決意するのは、子どもたちのだんまりストライキではなく、隣家のご主人の再就職なのである。隣家のご主人(東野英次郎)は定年退職を迎えるのだが、退職金で悠々自適とはいかない。もう、そんな時代は終わったのだ。定年を迎えても何か仕事をしなければ暮らしていけない。そこで、ご主人は家電メーカーの営業職を得るのである。笠智衆は「お祝いに何かもらいましょう」とテレビを買うことを決意するのだ。そこにはまだ自分は会社員でいられるという優位と、新しいテレビを手に入れられるという高揚がある。
しかし、その様子をじっと見ていた妻は後からそっと言うのだ。「うちもそろそろ考えないといけませんね」と。「なにを?」と答える笠智衆に妻は「定年よ」とわずかに棘のある言葉を吐くのだった。この時、笠智衆が見せる表情がまるで地獄の淵をのぞいたかのような表情なのだ。一瞬のワンカットだし、映画全体が可愛らしいコメディなので見落としがちなのだけれど、もしかしたら、この場面こそ、この映画の核となる場面のような気がする。そして、政治家や経営者など社会的に権力を持つ人にこそ、この場面は見逃してほしくないと心から思う。雇う側は、経営者の苦しみは経営者にしかわからないと思いがちだ。しかし、雇われる側にだって苦しみはある。定年でなくても、いつ仕事を失うのだろうと想像する恐怖は、これ以上のない苦しみだ。
サラリーマンは気楽な稼業だと植木等は歌ったが、そうでも思わなければやっていけない側面もあるのだと思う。そんな市井の人々の苦しみや哀しみにもきちんと目配せできるからこそ、小津安二郎の映画は面白いのだ。ただ、この映画を締めくくるのは佐田啓二と久我美子が演じる若いカップルの駅のホームでのやり取りだ。たがいに心惹かれているのに、子どもたちが揶揄するような余計なことばかり言い合っている二人。「良いお天気ですね」「ええ、本当に良いお天気」「あの雲、面白いですね」「ええ、本当に面白い形」と、余計なことばかり言い合いながらも心を通わせる二人を登場させ、今度は人の心の豊かさを見せつけてくれる。
小津安二郎は毎日の暮らしの中にある不安と希望を見事に描き出しながら、家族や仕事のあり方を私たちに問いかけているようだ。
著者について
植松 眞人(うえまつ まさと)
兵庫県生まれ。
大阪の映画学校で高林陽一、としおかたかおに師事。
宝塚、京都の撮影所で助監督を数年間。
25歳で広告の世界へ入り、広告制作会社勤務を経て、自ら広告・映像制作会社設立。25年以上に渡って経営に携わる。現在は母校ビジュアルアーツ専門学校で講師。映画監督、CMディレクターなど、多くの映像クリエーターを世に送り出す。
なら国際映画祭・学生部門『NARA-wave』選考委員。