第199回「日本劣等改造論(31)ファイナル」

このコラムについて

日本でビジネスを行う。それは「日本人相手に物やサービスを売る」という事。日本人を知らずして、この国でのビジネスは成功しません。知ってそうで、みんな知らない、日本人のこと。歴史を読み解き、科学を駆使し、日本人とは何か?を私、泉一也が解き明かします。

(はじめに)

日本人の取扱説明書は次号200号を持って終了します。

2018年6月5日「日本人って何者よ」を第1回としてスタートさせ、約4年にわたって毎週投稿をしてきました。当初20ぐらいでネタ切れやろと思っていましたが、「毎週楽しみです!」といった読者の声、Reeflet KAIWAI Magazine 代表の安田佳生さん、アシスタントの古江里菜さんのサポート(いや、おだて)のお陰で、想定の10倍ものコラムを書け「我がコラムに一片の悔いなし」となりました。

日本人のいいところやアカンところを知ることは、自分を知ること、仲間を知ること、先人を知ること、日本の風土を知ること、はたまた人間・宇宙はステキなことがわかりました。自分を仲間を日本を、そして人間を愛おしく感じられるようになった4年間でした。

普段当たり前だと見過ごしていることに200回も目を向けたことで、豊かになったのは間違いない。それに気づかず日本はオワコンだと言っている人もぜひこのコラムを読んでほしい。自分がそうだったように、童話「青い鳥」のごとく、青い鳥はお家にいたのですね。オワコンどころか、ハジコン(恥じコンテンツではなく始まりコンテンツ)なのでした。

では、残り2本のテーマに行きましょう。

 ― 場に答えがあるかも、いや、ある(前編)―

「事件は会議室で起こってんじゃない、現場で起きてるんだ!」

踊る大捜査線の青島刑事の名ゼリフ。心に響くだろう。

日本は「身体知の文化」であったことを忘れ、頭脳の文化に侵食され続けた。知識を持つ者、暗記が得意な人、論理思考力の高い人が評価され、身体的な感性が忘れられてきたが、この青島刑事の叫びが日本人の心に刺さる限り希望はまだ消えていない。

場を身体で感じ取る「身体知性」を育ててきた日本人は、自と他を分離したプレゼンが苦手であり、交渉が下手くそであり、アピールもままならないが、場を一緒に作り上げる能力はダントツである。

その能力は、工場で製品を一緒に作り上げるという工業社会で思う存分発揮されたが、知識社会となり、汗と油が排除され、空調の効いたオフィスでパソコンをいじりだしてからは、発揮されなくなった。指先だけをカチャカチャ動かす小綺麗な場では、身体的な感覚にスイッチが入らない。唯一感性で手を動かし続けたアニメとゲームにその身体知性は反映されている。

追い討ちをかけるように2020年からはコロナ禍となり、リモートワークが一挙に広がり、さらに身体知性は影を潜め、日本全体が暗い時代に入った。

身体知は、たとえ独房に閉じ込められても磨ける。座禅がそうであるように、目をつぶってじっと座っていても自分の内側に意識を向けて、心と体感覚を研ぎ澄まし「知」を生み出すことができるのだ。投獄された吉田松陰しかり、ネルソン・マンデラしかりである。

我々の日常は、大量の情報にさらされ、外からの大量の刺激によって内面を感じている暇(イトマ)がない。内面にある悶々とした感覚は、身体知性を高める最高の材料なのだが、外からの刺激で瞬間的に処理させてもらっている。自分に向き合わなくても、哲学的に思索をしなくてもTVにtwitterにyoutubeにtiktokにnetflixが処理をしてくれる。内なる悶々を簡単便利に処理する「メディア消費者」となってしまった。

それでも、TV番組プレバトでは俳句が人氣コーナーとなっているように、日本人は身体知を求めている。俳句とは場を感じ取り、その感覚を5・7・5という最小の言葉とリズムと間(ま)で表現する身体知の表現活動。過去のコラムで何度も触れたが、日本人は1000年以上も前に「万葉集」という天皇から軍人に乞食まで国民総出の詩集を編纂するぐらいの文化を築いた。

例えば、大伴家持の新年の歌

「新しき 年の始めの初春の けふ降る雪の いや重け吉言」
(あたらしき としのはじめの はつはるの きょうふるゆきの いやしけよごと)

年のはじめに降り積もる雪をみながら、新年の吉を祈っている歌であるが、1000年も前の日本人の身体知が、現代の我々も同じ言葉で感じとることができる。この凄さが分かるだろうか。写メや4K映像に慣れてしまった現代人に、歌で後世に身体知をつなげることができるのだろうか。

今、国民総出で令和の万葉集を作ろうなんて活動をしたら、日本人の身体知が復活し、それはそれはすごいことになるだろう。工業社会で発揮し、知識社会ではイマイチだったが、もうすでに来ている「智慧と行動の社会」では大いに発揮される。

知識社会では事実(fact)を元に論理的に思考し、論理的に議論することが求められたが、智慧と行動の社会では、感性で思考し、感性で行動し、感性で語り合うことで、新しい知を生み出すからだ。この感性は自分の体感覚から来ていて、互いの体感覚を伝え合い、読み取りながら、自分の感性も研ぎ澄ましていく。万葉集を今の我々が読んで、感性が豊かになるように、そんな関係性の中で、智慧と行動が生まれるのだ。(後編に続く)

 

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著者情報

泉 一也

(株)場活堂 代表取締役。

1973年、兵庫県神戸市生まれ。
京都大学工学部土木工学科卒業。

「現場と実践」 にこだわりを持ち、300社以上の企業コーチングの経験から生み出された、人、組織が潜在的に持つやる気と能力を引き出す実践理論に東洋哲学(儒教、禅)、心理学、コーチング、教育学などを加えて『場活』として提唱。特にクライアントの現場に、『ガチンコ精神』で深く入り込み、人と組織の潜在的な力を引き出しながら組織全体の風土を変化させ、業績向上に導くことにこだわる。
趣味は、国内外の変人を発掘し、図鑑にすること。

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