延命とはどのような行為なのか。
人は延命によって何を得て、何を捨てているのか。
私たちはもっと真剣に
そこに向き合わなくてはならない。
得るものは命の長さだろうか。
いや、そんな単純なものではない。
そもそも命とは何なのだ。
死んでいない状態を
命がある状態だと法律は認定している。
つまり肺と心臓と脳が動いている状態。
それが法的に生きている状態である。
今や医療の進歩によって、
肺と心臓が動いていなくても生を保つことができる。
では脳が動かなくなったら死なのか。
それは脳のどの部分なのか。
基準は国によって、つまり法律によって異なる。
医師はその法律に従って行動するだけだ。
勘違いしてはいけない。
医者は医療のプロであって、
命のプロではないのである。
では国家は命のプロなのか。
法律をつくる政治家は命のプロなのか。
もちろん違う。
そもそも命の基準など自分で決めるほかないのである。
だが私たちはそれをやらない。
法律に委ね、医者に委ねてしまう。
法的な延命と引き換えに、
私たちは何を失っているのだろう。
チューブに繋がれながら3年生きることと、
自由に動きながら1年しか生きないこと。
そのいずれを選ぶかは個人の死生観による。
だが現代人の多くにはその死生観がない。
だから人に委ねる。自らの命さえも。
これは終末医療だけの話ではない。
人はみな死にながら生きているのだ。
1日生きるということは
1日死ぬということとイコールである。
生きるとは死ぬことなのだ。
今日死んだあなたは、
自分の意思で死んだのだろうか。
コロナは人間に死を考えさせてくれる。
自由も遊びも命と引き換えにしないと
手に入らないものだということを。
末期の人間だけではない。
元気に動いているすべての人は、
命と引き換えに今日という時間を得ているのである。
その時間を、その命を、他人に委ねていいのだろうか。
満員電車に乗ること。
会社に通勤すること。
報酬と引き換えに仕事をすること。
それはすべて命を削ってやっている行為なのだ。
本日、私は何をやるのか。
それを決めることは即ち
命の使い方を決めるということである。
そんな重要な選択を会社に委ねていいのだろうか。
医者に委ねていいのだろうか。
国家に委ねていいのだろうか。
気がついたときには死が近づいている。
そのときようやく考え始めるのだ。
私は何のために生きてきたのだろうかと。
だがその問いを考えるべきは今なのである。
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