その63 身だしなみに必要なもの

わたくしが現在居住している町は静かな住宅街ですが、
自分のようなサラリーマンが職場への距離だけの理由で
たまたまやってきた場合のほかに、
おそらくは大正明治江戸までさかのぼれるであろう
文字通りの地元の人たちがそれなりの割合残っています。

地元の方もいろんな世代いらっしゃるでしょうが、
日頃そのあたりでお見掛けするのは圧倒的にご老人です。
まあ、若者や勤労世代の多くは日中学校や職場でありましょうから当然ですが。

そんな、ご近所に住むご老人がたをお見受けするとき、
いわゆる「身なりのいい」装いをしているところを
みたことがありません。
みなさんご自宅から遠くても数百メートル圏内への用事であったり
散歩をすることが目的であろうからして、
それはあたりまえのことです。

かくいうわたくしも、
新型コロナ・ウイルス時代以降、
通勤が自転車になったことをとどめに
身なりは最低限のものになり果てています。
初夏から以降は自転車に乗っているだけで大量に汗をかく所為で
コットンやリネンで出来ている「服らしい服」を着るのは生理的に無理であり、
秋から冬にかけてはロングコートのような「服らしい服」はあまりの動きにくさでやはり無理であり、
そもそもが、職場に着いたら作業服に着替えるのです。

かくして、全身スポーツメーカー製品で固めた
昭和の体育教師のようなスタイリングで
年間を通して過ごすことになった次第です。

制服のある職場ではどのみち意味がないと思われるかもしれませんが、
交通公共機関を使っていた時分はそうでもなかったのです。
むしろ乏しいワードローブを一応は見渡してから
本日はこれを着ていこう、などと組み合わせを考えたものです。

もちろんほとんどの日はただ黙々と出勤と帰宅を繰り返すだけですので、
現在のジャージおじさんスタイルとやることは変わらないのですが、
それでも「人が往きかう町」に触れる時間があることが
行動に影響を与えていたのだと思われます。

その昔、大学の獣医学部が舞台になったマンガで、
「はじめは若者らしく華やかだった新しい学部生たちが
オシャレをしても化粧をしても周囲にいるのは動物だけという環境にいるうち
やがては審美性を放棄してしまう」というエピソードがありましたが、
おそらく身だしなみという社会性に必要なのは
他者の「目」でも「評価」でもなく、
他者の「存在」なのです。

個人的には最近、
鼻毛が出ていることに気づいても恥ずかしい気持ちにならなくなりつつあり
もうダメかもしれないと内省しているところでございます。

 

この著者の他の記事を読む

著者自己紹介

「ぐぐっても名前が出てこない人」、略してGGです。フツーのサラリーマン。キャリアもフツー。

リーマン20年のキャリアを3ヶ月分に集約し、フツーだけど濃度はまあまあすごいエッセンスをご提供するカリキュラム、「グッドゴーイング」を制作中です。

感想・著者への質問はこちらから