四半世紀ぶりくらいに
村上春樹のデビュー作「風の歌を聴け」を読みました。
発表された1979年当時は
ポップな文体と作風が文学かどうかで賛否両論だったそうですが、
現在でしたら十分すぎるほどシリアスです。
それは、作者が日本を代表する大家になり
作品の受け取られ方が変わったというよりも、
小説というモノがミリオンセラーになりえた時代だったから、
というひと言に尽きるかと思います。
つい数十年昔まで、文章は手で書き、かつプライベートで消費されるものでした。
文章を活字で人前に出すことができるのは
メディアやライターや作家といった
一握りのプロだけに許された行為でした。
コトバを使って何かを伝えたいという明確な意思と
それを現実にする行動力を兼ね備え、
特定の職務に就くことができた者だけが
自分の文章を第三者に発信することができたのであり、
それ以外の人間はすべて受け取る側、という区分けがされていました。
1980年代ころからワードプロセッサーが現れ、
書くだけなら誰でも手書き以外の手段をとれるようになりました。
そしてワープロがパソコンになり、インターネットが出現し、
ついには若い世代はスマホが前提になりすぎて
キーボードでは入力が苦手だといわれるまで、
環境も道具もなにもかもが変わりました。
すべての人がなんらかの文章を発信する現代、
インターネット前夜と完全に切り替わったコミュニケーションの常識があります。
それは
「文法に不備がないことが、書き言葉の倫理観ではなくなった」
ということです。
文章がプロのものだった時代、
誤字脱字、誤用や不正確さを防ぐために必ず校閲がかけられ、
いい悪い以前に、不備は「恥ずべきこと」でした。
今では地上波のテロップもふつうに誤字が流れます。
「てにおは」が正確でなくても誰も気にしませんし、
なんなら、意図が通じさえすればいいというコンセンサスが成立して、
言い回しにこだわることは意味のない旧弊ですらあります。
たとえ、言葉など変わりゆくものだ、それがあたりまえだと考える人でも
人に会う場面では敬語を使うでしょうし、
子どもに命令系でなにか頼まれたら「えっ」となるでしょう。
話し言葉こそ表現は変化しやすいものですが、
その核にある倫理観において、
皆の体にしみこんだ「正しさ」はいまも機能するのです。
一方、書き言葉では、全員発信者型の社会になることで
それが事実上消滅したのです。
文章のレベルが問われない、
コトバの正確さに誰も興味がない世界では、
文字だけで編み上げられたロジックの結晶である小説が
オワコンになるのも当然のことです。
だからといって、文法ができなくなった分だけ
現在人がアホになったわけではありません。
能力のリソースが、動画を2倍速で見ることに振り替えられているのです。