最初にどこかで「後期高齢者」という単語を聞いたとき、
引っかかりを感じた方は少なくないのではないでしょうか。
あたりまえですが人というのは
いくつまで生きるものと決められているわけではないので、
ここから後半だという線引きが持ちこまれることは
感覚にはなじみにくいはずのものです。
具体的には
前期が65歳から75歳までだったら、
75歳から85歳までが後期であると暗にいっているようで、
そうだとしたら85歳以上は人生のロスタイムとみなしているのか?
などとうがってみてしまいそうです。
実際は、マクロな社会制度での区分けである以上
年齢という物差しを使うことには統計的な妥当性があります。
周囲の方を見ていても、
ご自身の年齢が四十だの五十だのになりますと
親御さんが亡くなったり、ご存命でも健康はなにかしらの問題があることが
むしろ普通のことになっているようです。
子供のころに大人になった自分のために努力できる人が
真に優秀な人であるように、
若者のうちに親が老いた日のことを想像できる人が
人生を俯瞰する賢さを持った人なのでしょうが、
子供のころは人間30歳を超えたらもう終わりのように思っていたような
われわれ凡夫には
そんなことわかりっこありません。
中年になってはじめて老人というものを理解しはじめ、
ついでに自分が子供のころの感覚を忘れてしまうものです。
しかたなく、自分の子供を通じて
親が自分をどう見ていたのかを実感したり、
自分の親を通じて
人間がどう終わっていくのかを学んでいくわけです。
かくいうわたくしも、
最近はめっきり弱った親と
めっきり弱ったがために関わる機会が増えました。
そこで、老人が自己についてどう意識しているのか、
何を欲し、何をしたくないのか、
あんなによろよろと歩くのはなぜか、
というようなことを少しずつ体験的に見聞きしています。
これらは時間その他を割くに十分値する、
人間としてわりあい真当な学びなのですが、
「だからといって社会では一文にもならない」
という欠点があるんですよねえ……。