その106 天才

平凡な事務作業員Xは
職場にいる時間の半分くらい、ある業務用アプリに向き合っています。

Xがそのアプリを使い始めて十年以上になります。
ニッチな分野のため、ほかの同業種向けアプリを使ったことはありませんが、
そのアプリにはちょっとした伝説があり、
なんでも、それはあるプログラマーが一人で作り上げたものだそうです。
そのプログラマーは一人でそれを組み上げ、起業し、拡販し、
会社としての形を作って技術者を雇い、
それから数十年、小さな規模ながらその会社はサービスを続けています。

ある日、Xの会社が使う業務用アプリが変更されることになりました。
新しいアプリは巨大グループの一次子会社(それでも社員1000人以上)の
商品で、そちらも運用は二十年以上のキャリアがあるそうです。

アプリが何でも、事務作業員が業務としてやることは変わりませんので、
同じような機能を理解して同じように設定し、
情報を移し替えて同じように使う、
何ヶ月かはかかりますが、
ただそれだけのことだとXは思っていました。

しかし、手をつけてみると想像以上の違和感にXは焦りました。
新しいアプリのあまりの使いづらさに、です。

Xはそれまでの経験で体感したことがありました。
それは、
「長年使われてきたアプリは信用に足り、ユーザーが従っていく価値がある」
というものです。

ベンダー、ユーザー問わず、多くの人間が多くの時間を費やしてきた
アプリというのは、自然とミスや無駄が取れて最適化されたものであり、
それはまず、質的に信用に値すると見なして間違いないということです。

Xはベテランですので、アプリに対して「こういう処理をしたい」という意図は明確です。
しかし、いまやっていることが仕様でできない、
あるいはそれまで一瞬でできた操作と同じ結果のために
数十回の繰り返しが必要になる、などの使いづらさが立ちふさがり、
なかなか前に進めない状況に陥ることで、Xの不安は膨らみました。

いまのアプリではできるが、新しいアプリではできない、手間がかかりすぎる、
ということを毎日毎時繰り返すことで、
いわば「……前に俺がいた会社はこうだったのに、ここはそうじゃない……」
という、会社で軽蔑される人間の代表例「前の会社おじさん」のような、
否定的感情と被害者意識を抱きながら人格が矮小化していく、
サラリーマン心理の暗黒面に落ちていくことをXは恐れました。

そして、それからしばらくの悪戦苦闘の日々の後、
Xはふと気づきました。

「新しいアプリ、すげー常識的だな……」

巨大グループのサラリーマン技術者たちが長年築いてきたアプリ、
その特徴は、多数決で決めたような「普通さ」でした。

多数決がそうであるように、幅広くなにかを網羅しようとするためには
なにかを捨てなくてはならず、そのひとつがXの直面した「使い勝手」だったのです。

それに比べると、いまのアプリはあまりに個性的でした。
基本設計の場で合議したならば、きっとその仕様は否定されまくり、
おそらく原型をとどめなかったに違いありません。

Xは、自分が落ちかかっていた暗黒面を脱し、
同時に小さな感動をおぼえていることに気づきました。

「新しいアプリが悪いのではなく、いまのアプリが凄すぎたのだ。
あれを一人で思いついて作ったプログラマーこそが、天才だったのだ……」

 

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著者自己紹介

「ぐぐっても名前が出てこない人」、略してGGです。フツーのサラリーマン。キャリアもフツー。

リーマン20年のキャリアを3ヶ月分に集約し、フツーだけど濃度はまあまあすごいエッセンスをご提供するカリキュラム、「グッドゴーイング」を制作中です。

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