経営者のための映画講座 第31作『ギルバート・グレイプ』

このコラムについて

経営者諸氏、近頃、映画を観ていますか?なになに、忙しくてそれどころじゃない?おやおや、それはいけませんね。ならば、おひとつ、コラムでも。挑戦と挫折、成功と失敗、希望と絶望、金とSEX、友情と裏切り…。映画のなかでいくたびも描かれ、ビジネスの世界にも通ずるテーマを取り上げてご紹介します。著者は、元経営者で、現在は芸術系専門学校にて映像クラスの講師をつとめる映画人。公開は、毎週木曜日21時。夜のひとときを、読むロードショーでお愉しみください。

『ギルバート・グレイプ』が殴ったのは弟だったのか自分だったのか。

若き日のジョニー・デップとレオナルド・ディカプリオ、そして、ジュリエット・ルイスの共演で知られる『ギルバート・グレイプ』。スウェーデン出身のラッセ・ハルストレムが監督し、日本では1994年に封切られた。

舞台はアイオワ州の小さな町。何の変哲もない小さな町に住むグレイプ家は父親が7年前に自殺してしまってからすべての時間が止まってしまったかのようだ。母親はショックから引きこもりながら過食を続け、まるで鯨のような巨体になっている。彼女は家から一歩も出ず、自分の部屋がある二階にもあがらずにリビングのソファで毎日を過ごしている。そして、思い知的障害のある次男のアーニー(レオナルド・ディカプリオ)を溺愛する。

長男のギルバート(ジョニー・デップ)は、そんな母と弟のほか2人の姉妹とともに暮らしている。仕事は町の小さな食料品店の店員。店の棚の整理をし、時には商品の配達もする。そして、配達先の人妻の不倫相手をしたり、友だちとダイナーでくだらない会話を楽しみながら、無為な日々を送っている。

この映画のなかのギルバートはいくつなんだろう。20代前半から真ん中くらいだろうか。ハンサムで若いギルバートだが、彼には夢がない。「将来の夢」というものを持ち始める時期に父親が自殺してしまい、彼は夢を持つタイミングを逸してしまっている。しかも、ギルバートには時間がない。隙を見ては町外れの給水タンクによじ登って警察の世話になってしまう弟を優しく諭したり、風呂に入れてやったり、母に代わって姉妹たちと家事をこなしたりもする。忙しさに紛れて、何をすべきなのかという答えを先送りにしているようだ。

ギルバートは恋愛にも期待していない。だからこそ、勤めている食料品店の常連客である人妻と付き合っている。しかも、別れが訪れたとき人妻から「私なら浮気相手は誰だって選べたのにあなたを選んであげたのよ。なぜ、あなたを選んだのかわかる? あなたがこの町を出ない男だとわかっていたからよ」とまで言われてしまうのだ。

しかし、無為に過ごそうと、血気盛んに過ごそうと、同じ日々が続くことはない。7年間停滞していたグレイプ家にも変化は訪れる。アーニーが再び給水塔に登り警察に逮捕されてしまったことで母は怒り、7年ぶりに巨体を揺すりながら家を出てアーニーを助けに行く。そして、なんの特徴もない町に、旅慣れたベッキー(ジュリエット・ルイス)という女の子がやってくる。彼女は祖母と一緒にキャンピングカーで旅をしているのだが、途中で車が故障し、しばらくギルバートの住む町に滞在せざるを得なくなったのだった。ベッキーは真っ直ぐに物事を見る。障害のあるアーニーにも正面から向き合う。アーニーはそんなベッキーとすぐに仲良くなり、ギルバートもベッキーに心を開いていく。

映画の中盤、ギルバートとベッキーが草原で話し込むシーンがある。ベッキーが言う。「あなたの家を見せて」と。最初は嫌がるギルバートだが、ベッキーにせがまれて家の方へと歩き出す。夕陽に照らされた自分の家を遠巻きに眺めながら「こんなに小さな家だったのか…」と絶句する。その時のギルバートの顔はもう泣き出す寸前の幼児のようだ。そして、ベッキーはそんなギルバートを優しく見守っている。この時から、ギルバートの心には「ここにいてはダメだ」という思いが芽生えたのだと思う。しかし、そんなギルバートの足かせになってしまうのが動けない母であり、障害をもったアーニーだ。苛立ちが募ったギルバートは、ある日、聞き分けのないアーニーをギルバートは殴ってしまう。

この時、ギルバートが殴ったのは弟だったのか、それとも自分自身だったのか。結局、自分を許せなかったギルバートはしばらく行方をくらませてしまう。いらだちを障害のある弟に向かわせてしまったことを彼はこれからの人生で忘れることはないだろう。それは、アーニーが血を分けた弟だからだ。無償の愛で守るべき弟だからだ。

これが赤の他人だったらどうなのだろう。例えば、「社員は家族です」という会社のなかで、新たな目標を持った経営者が自分のいうことを聞かない部下にいらだち、暴力はふるわないまでも暴言を吐いてしまったとしたらどうなるのだろう。おそらく部下は何年経っても忘れることはない。しかし、経営者はきっと忘れてしまうのだと思う。なぜなら、会社のためという大義名分があるから。アーニーを殴り後悔するギルバートは家族のためという言い訳はできない。だって、アーニーも家族の一部だから。

この映画を見る度に、家族であることの喜びと悲しみ、ありがたさと残酷さといった相反する感情を同時に感じてしまう。同時に、家族のために生きたことがある、という経験が経営者にとっても、雇用される社員にとってもとても大きな経験になるのだと思える。

著者について

植松 眞人(うえまつ まさと)
兵庫県生まれ。
大阪の映画学校で高林陽一、としおかたかおに師事。
宝塚、京都の撮影所で助監督を数年間。
25歳で広告の世界へ入り、広告制作会社勤務を経て、自ら広告・映像制作会社設立。25年以上に渡って経営に携わる。現在は母校ビジュアルアーツ専門学校で講師。映画監督、CMディレクターなど、多くの映像クリエーターを世に送り出す。
なら国際映画祭・学生部門『NARA-wave』選考委員。

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