第140回「さよならの国」

泉一也の『日本人の取扱説明書』第140回「さよならの国」
著者:泉一也

このコラムについて

日本でビジネスを行う。それは「日本人相手に物やサービスを売る」という事。日本人を知らずして、この国でのビジネスは成功しません。知ってそうで、みんな知らない、日本人のこと。歴史を読み解き、科学を駆使し、日本人とは何か?を私、泉一也が解き明かします。

さようならは、左様なら。

関西弁では別れ際に、「ほな!」という。「ほんなら」が語源であるが、さようならと同じ意味。

“さようなら、ほな”の正体は、“そして、だから”といった接続詞と同種である。

接続詞を別れ際につかうのは、お別れでないことを表す。続きがあるのだ。この場は一旦終わるが、その続きがあるよという「連続性」を残しその場から立ち去る。これを残心という。接続詞の後は具体的に何もいわず余韻を感じるだけ。「さようなら」というたった一つの言葉に、別れ際の美しさが見えてくる。

サヨナラ、サヨナラ、サヨナラーー♪もう直ぐ外は白い冬。この歌には残心があるから、いつまでも心に響く。別れの悲しさの中にある美。サヨナラという言葉自体にその美しさがあるのだ。

言葉とは本来アート。左様であるから歌に俳句に書道がある。

言葉とは感じるもの、愛でるもの。それがわかっていた日本人は言葉を道具ではなくアートにした。1300年前に編纂された詩集「万葉集」には4500首以上の和歌があり、庶民が詠んだ歌がたくさん収められている。プロのアーティストの作品集でなく、日本人みなで詠んだ日常のアート集なのである。

左様な歴史を持つ日本人は、言葉を道具としたプレゼンは下手くそ。日本語自体の美しさを知っているので、記号のようにペラペラとしゃべりたくない。ペラペラしゃべると言葉の薄っぺらさと醜さが露呈されるので、下品に思えて気分が悪くなるのだ。

英語は記号に近い言葉なので、世界共通語という道具として機能する。ちなみに数字も記号であるが、その記号を使う便利な道具が「算数」であり、算数は世界共通である。その算数に英語は近い。英語が堪能な日本人の多くは、プレゼンは日本語より英語のほうがやりやすいというが、それは言葉本来の性質がそうだから当然である。

今の日本の学校は、日本語を道具のように学ばせている。今の義務教育は社会で生きるため、もっと言えば社会に役立つ道具になってもらうための、道具習得&道具人材養成機関であるので仕方ない。美術の授業が片隅に追いやられている現状を見ればわかるだろう。

左様な教育をしているので、日本人の美意識は高まらない。ペラペラである。それは、日本語を道具にして話し合う国会中継を見れば一目瞭然。あれが日本の法律を決める最高意思決定機関なのである。なんなら英語でやってくれた方が、まともな会議になる。世界にも発信ができるし。

国語とはアートなので、授業のスタイルから根本的に変えたほうがいい。「あいうえお」をやめて「いろはにほへと」にまずは変えることだ。

などと書いているうちにだんだんと、ペラペラな記号言葉になってきたので、そろそろお開きにしよう。

ほなな。

 

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著者情報

泉 一也

(株)場活堂 代表取締役。

1973年、兵庫県神戸市生まれ。
京都大学工学部土木工学科卒業。

「現場と実践」 にこだわりを持ち、300社以上の企業コーチングの経験から生み出された、人、組織が潜在的に持つやる気と能力を引き出す実践理論に東洋哲学(儒教、禅)、心理学、コーチング、教育学などを加えて『場活』として提唱。特にクライアントの現場に、『ガチンコ精神』で深く入り込み、人と組織の潜在的な力を引き出しながら組織全体の風土を変化させ、業績向上に導くことにこだわる。
趣味は、国内外の変人を発掘し、図鑑にすること。

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