第187回「日本劣等改造論(19)」

このコラムについて

日本でビジネスを行う。それは「日本人相手に物やサービスを売る」という事。日本人を知らずして、この国でのビジネスは成功しません。知ってそうで、みんな知らない、日本人のこと。歴史を読み解き、科学を駆使し、日本人とは何か?を私、泉一也が解き明かします。

 ― 死は白、生は黒(前編)―

日本古来の喪服は「白」。東洋で死は「白」を現す。切腹する武士といえば白装束をイメージするだろう。今でも遺体に白い服を着せるのはその名残だ。

明治になって西洋の「死は黒」という逆の概念が入ってきた。葬儀の時に黒い服を着るのはもともと西洋式である。死に対する感じ方が東洋と西洋では真逆。よって、生に対する感じ方も真逆。

冠婚葬祭でいうと、冠(七五三詣などの儀式)、婚(結婚)、葬(葬式)、祭(お祭り)といった儀式は、ハレの日といわれている。葬式がハレの日?と思うかもしれないが、死んで「あの世=浄土」に行けるのでハレの日である。

死人が浄土というハレの世界に行くのに必要なのが「白い服装」。見送る人もその白を汚さないために白い服を着る。白は浄化を意味するのだ。

白は清らかさと明るさ。なので、葬式は死者を浄土へお見送りする「めでたい」祝いの儀式。逆に黒は悲しみと厳しさを現す。

日本における「生」は「黒」であり、悲しみと厳しさを表し、西洋で「生」は「白」で清らかさと明るさを現す。死生観が真逆!日本では、元々生きているのが「黒」なので、そこに少しでも清らかな明るさがあると、それは喜びと感謝になる。黒いところに白い点があるように際立って目立つのだ。

「生」=「白」には違和感がある。賛美歌にはピンとこない。生きている喜びよりも、生きている苦しみの中にふと感じる白。真っ白なのは、死した後の浄土の世界。

白いところにある黒は「染み」のように目立つ。病気や老いや貧しさといった不幸はどん底を現す。よって、どん底を救わなければならないといった、救いの教えが広まり、西洋ではチャリティーが盛んに行われる。聖人君子的な清廉潔白な人が尊敬されるが、日本では偽善的で嘘くさく感じられてしまうのは、そこにあるだろう。

日本は「生」=「黒」なので、今で言う不幸は不幸でなかった。幕末の頃日本を訪れた欧米人は、貧しく生きる庶民たちの幸せそうな笑顔にびっくりしたらしい。不幸な人たちは暗い顔をしているのが当たり前だったのだ。幸せを求める青い鳥は日本には生息してなかった。湖や池にブラックバスが繁殖したように、青い鳥が繁殖して日本でも主流になってしまったが。

哲学でいうと、幸福論をアリストテレスやパスカルが論じたが、日本に幸福論はない。「人間万事塞翁が馬」という幸せと不幸が流転しているごっちゃな世界があるだけ。最後は死して浄土に行くので、生全体でいうと基本は汚れている。

そんな汚れが基本なので、手を汚し、汗を流すという現場に美学があり、エアコン完備のきれいなオフィスで、事務処理だけをしている人をあまり好きになれないのだ(私だけかも・・)。

劣等感というのは「生」=「白」だから生じるものであって、「生」=「黒」からは生まれない。元々、人には差があって平等なんてありえない「黒」が基調であれば、比較をして落ち込むことなどない。本来人は平等という白を持つから、相対的に劣ったと分かって劣等感が生まれる。日本人の劣等感は黒白が逆転した死生観から生じたのかもしれない。

日本古来からのお祓いを始めとした「清めの儀式」は、日常が黒であることを確認するための儀式といっていいだろう。教会で聖水をかける行為とは真逆。後編では、死は白、生は黒、といった死生観に反転してみよう。

 

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著者情報

泉 一也

(株)場活堂 代表取締役。

1973年、兵庫県神戸市生まれ。
京都大学工学部土木工学科卒業。

「現場と実践」 にこだわりを持ち、300社以上の企業コーチングの経験から生み出された、人、組織が潜在的に持つやる気と能力を引き出す実践理論に東洋哲学(儒教、禅)、心理学、コーチング、教育学などを加えて『場活』として提唱。特にクライアントの現場に、『ガチンコ精神』で深く入り込み、人と組織の潜在的な力を引き出しながら組織全体の風土を変化させ、業績向上に導くことにこだわる。
趣味は、国内外の変人を発掘し、図鑑にすること。

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