自らの不注意で、
テーブルの脚に小指をぶつけて痛がる。
自らの不注意で、
道端の段に足を引っ掛けて転ぶ。
そのような時、人は自らの失敗ではなく、
それをもたらした誰かに怒りをぶつける。
いったい誰が、
こんなところにテーブルを置いたのだ!
いったい誰が、こんなところに段を作ったのだ!
という具合に。
筋違いではあるけれど、誰かにぶつけたくなる怒り。
そういうものが私たちには確かにある。
それは人間の本性みたいなもので、
どうしようもない感情の暴走なのだ。
瞬間的に起こるその感情を、
コントロールすることは難しい。
だが時間が経てば人間は冷静になれる。
誰かに怒りをぶつけ、
文句を言ったところで意味がない。
ということを、私たちの理性は知っている。
なぜ理性が必要なのか。
それは、同じ失敗を繰り返さない為である。
テーブルを置いた誰かが悪い。
段を作った誰かが悪い。
自分は全く悪くない。
そう定義してしまうと、自分の行動は変わらない。
結果的にまた小指をぶつけ、また道端で転ぶ。
痛いのは誰でもなく自分自身である。
怒りの感情が湧くのは構わない。
誰かを罵るのもいい。
だが不幸な出来事を繰り返したくないのであれば、
「原因は自分である」ということを認めるしかない。
筋違いの文句を言い続けたところで、
現状は何一つ変わらないのである。
数ある文句の中で、私が最も意味がないと感じるもの。
それは報酬への文句である。
やった仕事に対して、報酬が安くて見合わない。
それは、とんでもなく筋違いな文句である。
報酬が安いのは、相手がケチだからではない。
テーブルを置いた人に罪がないように、
仕事と報酬を決めた人にも罪はない。
こういう仕事内容です。
報酬はこれだけです。
そう提示されている仕事を、自ら選んでいるのである。
テーブルはそこにある。
段差もそこにある。
ぶつかるかどうか、躓くかどうかは、本人次第だ。
仕事に報酬が見合わない。
それは、自ら報酬を決めていないからである。
誰かが決めた仕事、誰かが決めた報酬。
それを受けておいて文句を言うのは筋違いだ。
自ら仕事を作り、自ら価格を設定し、
買いたいと言う顧客を自ら探す。
それが報酬に不満を持つ人たちの、正しい努力である。
こんなに安い報酬を設定したのは誰だ!
と文句を言ったところで意味がない。
テーブルに足をぶつけるのも、
安い仕事を選んでいるのも、自分自身なのである。
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