絶妙なるミス

Google翻訳がどんどん進化している。
AIが完璧な通訳を実現する日もそう遠くはないだろう。
ボタンひとつで瞬時に言語の壁を越える機能。
それが無料で提供される未来は想像に難くない。
そうなったとき翻訳という仕事は残るのだろうか。

もちろんこれは翻訳だけの話ではない。
将棋ではもはや人間はAIには勝てない。
ゴルフにしろ、ゲームにしろ、
AIが人間より完璧にプレイすることは間違いない。

いやいや人間がプレイすることに意味があるのだよ。
と物知り顔で語る人は多いが、
それは一体どういう意味なのだろう。

今は将棋の大会でプロ棋士の指手を
AI が瞬時にスコアリングする。
正しい打ち手はこれ。
今の手で勝率は〇〇%に変化した。
視聴者はその判定を見て一喜一憂する。

だったらAIにプレイせればいいじゃないか、
とはならない。
それではつまらない。
なぜならAI はミスをしないからである。

もちろんプロ棋士もそうそうミスは犯さない。
だが人間なので必ずどこかでミスをする。
つまるところ我々はこのミスを楽しんでいるのである。

たとえば映画や小説の翻訳をAIが行うか人間が行うか。
ミスなく完璧に訳すのなら
どう考えてもAIの方が適している。
人間が翻訳する価値は個性である。
その人の価値観や感性を加味した上で訳された文体。

言い換えればそれはミスである。
正しくはAと訳すべきところをBと訳す。
その行為によって映画や小説は一味違った物語になる。
完璧なる答えをAIが導き出し、
人間がミスを加えることによってその価値は高まる。

AIを搭載したロボットが打つ、
絶対にミスしないティーショット。
AIがプレイする絶対にミスをしないeスポーツ。
そんなものを見たい観客はいない。
とは言えミスだらけの素人のプレイを
見たいわけでもない。

我々が見たいのは絶妙なるミスだ。
素人の池ポチャに見る価値はないが
プロが繰り出す池ポチャは見たい。
それも優勝をほぼ手中にした最終ホールでの池ポチャ。
期待と失望を一瞬で行き来するミス。
こんなにエキサイティングなシーンはないだろう。

完璧なる器に加えられた歪みのように。
美しく仕上がったデニムに施す汚れのように。
ミスは完璧の価値を別次元に押し上げる。
人間にしかできない付加価値。
それがミスなのである。

重要なのはミスのクオリティーだ。
美的で、知的で、個性的で、
練り込まれた、味のあるミス。
凡庸なミスには価値などない。

 

この著者の他の記事を見る


尚、同日配信のメールマガジンでは、コラムと同じテーマで、より安田の人柄がにじみ出たエッセイ「ところで話は変わりますが…」と、
ミニコラム「本日の境目」を配信しています。安田佳生メールマガジンは、以下よりご登録ください。全て無料でご覧いただけます。
※今すぐ続きを読みたい方は、メールアドレスコラムタイトルをお送りください。
宛先:info●brand-farmers.jp (●を@にご変更ください。)

 

1件のコメントがあります

  1. 凡庸なミスに価値(驚きや物語他)は無い。なるほど~、です。いつもコラム、ありがとうございます。

感想・著者への質問はこちらから