間のない時代

ゆったりとした時間が流れる静かな喫茶店。
そういう店が姿を消しつつある。
もちろん全ての顧客が
効率だけを求めているわけではない。

たまにはひとりで静かな喫茶に入り、
香り高いコーヒーなど飲みながら、
物思いに耽るのもいい。
そう夢想する人は少なくないはずだ。

だがそれが実現することは稀である。
なぜなら現代人には間がないからである。
時間はあるが間はない。
それが現代人の特徴なのだ。

気がついたら1日が終わっている。
あっという間に1週間が終わった。
もう今月も終わりか。いや今年も終わりだ。

そうやって光陰矢の如く過ぎ去っていくのである。
1日の長さも1年が365日であることも、
太古の昔から変わらぬ事実である。
だが感覚的には時の経過が加速し続けている。

テクノロジーの進化と
それを使いこなすスキルによって、
我々のパフォーマンスは驚異的な向上を遂げた。
恐ろしいほどの情報を処理し、
ハイテク機器によってあっという間に作業を終えていく。

昔の人が1日かけてやっていた仕事が、
朝のメールのやりとりだけで終わってしまう。
企画書は既に雛形ができていて、
それを加工するソフトも、
そこに加える情報も溢れかえっている。

牛丼かコンビニ弁当でもかき込めば
食事は10分もかからない。
仕事の合間にYahoo!ニュースでも眺めておけば、
社会の状況は手にとるように分かる。

恐ろしいほどの速度で物事が終わっていく。
現代人の処理速度は昭和初期の
人間の数百倍にもなるだろう。
ちょっと休んでコーヒーぐらい飲む余裕はあるはずだ。

与えられた時間は同じ。
パフォーマンスは昔より遥かに高い。
だが1杯のコーヒーを1時間かけて
ゆったり飲むことができない。
それは間がないからである。

間とは何もない余白のことだ。
何もない時間があることによって、
人は時間を感じることができる。
見えなかったものが見え、
聞こえなかった音が聞こえる。

お笑いに間があるのは
理解する時間が必要だからである。
間を要しない一発芸は現代人に合っている。
テレビコマーシャルは間だ。
それに耐えられない人はYouTubeにお金を払う。

お金を払って間(広告)をなくしているのである。
ゆったりコーヒーが飲めないのは
時間がないからではない。
間が耐えられないからである。

現代人は断食よりも断スマホが辛い。
何もない時間が耐えられない体質になっているのだ。
ゆったりした喫茶店がなくなるのも道理である。

 

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1件のコメントがあります

  1. 確かに昭和の人や昔の人に比べると、体験時間密度は現代人が高いです。
    その分、間を消費することが退化する、耐えられないというのは、必然のような気がします。
    色んな場面で間を使い分け受け入れるということでしょうか!
    コラム、動画配信、ありがとうございます。

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